「父ちゃん、ぼくは漁師になる」

 

篠突く雨の通り過ぎた突堤で、海の彼方を見つめて、息子が言う。

 

「そしてあそこまで行って、でっかい貝を取るんだ。それを食べれば、きっと母ちゃんも元気になるよね」

息子は彼方の沖合を指差す。

空には、通り過ぎた深い灰色の雲を背に、虹が架かる。

私は息子を強く抱きしめ、これほどまでに優しく育ってくれたことに感謝をする。

 

だが息子よ。

おそらく君が考えているのはハマグリだろう。

 

ハマグリが吐くのは蜃気楼だ。

 

虹じゃない。

 

 

 

カオ・パッ・ガパオ・ムー・カイ・ダーオ

会社の近くに新しくタイ料理の店ができたので、-物珍しさもあって、昼時に何度か行ってみた。ガパオライスもパッタイもかなり美味しく、辛いものはしっかりと辛い。値段も安く店の感じも良い。

良いのだが。

店員の中で一人だけ、笑顔もなく、所在無げにしている女の子がいた。いつ見かけても下を向いていて、隣に立っている店員に肘で小突かれていた。

 

ちょっと気になる。そういうものだろう男なら。

 

ある日の昼、同じ部署の人とそのタイ料理店で、たまたま隣席同士になった。あまり会話をしたことはないのだが、基本的に正体不明。会話をしないわけではないのだが、つかみどころがない。

 

気になっているあの子がオーダーを取りに来た。

「えーっと、ガパオライスをひとつ」

彼女は少しつっかえながら、伝票にオーダーを書き込んで控えを私のテーブルに置いた。そしてそのまま隣席にオーダーを取りに行く。

彼はメニューを指差してオーダーをした。彼女は同じように伝票にオーダーを書いていく。

「あ、」彼は思い出したように彼女に二言三言、話しかけた。それを聴いた瞬間、彼女は満面の笑みを浮かべた。そして同じように伝票の控えを置いて厨房へ向かった。

ああ、彼女はあんな笑顔をするんだ、と思ったのと同時に、なぜあんなに笑顔になったんだろう、それがどうしても気になった。なんの話をしたんだ、彼は。

「あの」私は思い切って彼に尋ねることにした。

「さっき、最後に店員さんになんて言ったんですか?」

「ああ、あれ? ”マイ・サイ・パックチー“、パクチー抜いてってお願いしたんだ」

え? たったそれだけ? それだけでなぜあんなに笑顔になるんだろう。

「うん、まだ日本に慣れてないんだろうね。オーダー取りに行ってもみんな日本語か日本風の言い方だから。自分の知っている食事のメニューと結びつかなくて混乱していたんじゃないかな。

ほら、タイには”グリーンカレー“って呼ぶ料理はないし、“ガパオライス”って言い方もしないからね

だから、“パクチー抜いて” ってだけでもタイ語を聞いてちょっと安心したんじゃないかな。まあ下手くそな発音だけどね」

この人、ひょっとして結構な人たらしなんじゃないだろうか。などと思っているうちに、ガパオライス、いや本当はなんて言うんだろうか、が運ばれてきた。

 

隣もほぼ同時に、チキンライスが運ばれてきていた。彼はフォークとスプーンを取り、紙ナプキンで丁寧に拭う。

その様子を見て、彼女はクスクスと笑う。

その行為のどこが面白いのか分からない。それが悔しい。

彼女の笑顔を見られたのはいいんだが、一人取り残された気分だ。

辛い。

 

 

 

 

処方箋

「……どうしました?」

「あの、昼間眠くて困っているんです」

「ほう」

「仕事場で、あの、昼休みなんですけど」

「昼休みなら別にいいんじゃないですか?」

「いえ、あの、他の会社の方もいらっしゃって、そのお恥ずかしいんですが、……鼾をかいているらしくて」

「なるほど」

「それで現場の先輩からも責められてて、気分が落ち始めているんです」

「それは大変ですね」

「それで、このままだと以前にやった心の病が出そうなので、その、処方をお願いしようと」

「そうですねぇ、それでは、こちらのお薬を。こちらは気分を落ち着かせるものです。毎食後に服用してください」

「あ、ありがとうございます」

「ただし、」

「ただし、何ですか?」

「ただし副作用がありまして」

「副作用、ですか」

「はい。服用後に、眠気を催すんです」

「……はい?」

「ですから、眠気をですね」

「いやあの先生?」

「はい、なんでしょう」

「私は、眠気を催すのが原因で、それがストレスのもとになっているんですが」

「ええ、なのでそのストレスを穏やかにやり過ごすのにこのお薬を」

「ええそれはわかるんですが。これの副作用は……」

「眠気を催しますね」

「これは1日に……」

「朝昼晩。毎食後に服用してください」

「……お昼も飲むんですよね」

「ええ、そうですね。そうなります」

「で、このお薬は飲むと……」

「眠くなりますね」

 

「私の根本の悩みって、何でしたっけ」

 

 

英雄の帰還

軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

 


エウロパ行きJ9003、ゲート3へ。タイタン行きJ621は現在位置で待機を」

「火星行きM805、ゲート1出発位置で待機。M844ゲートアウトします」

「MN001、航路Dを使用してください。MN802、航路Aから侵入を。

「……取り敢えずこれで一段落ですかね」

「そうだね。あとひとつ、厄介なのが残ってるけどね」

「ああ、AM 01ですか。確かに厄介だ。火星行きでしたっけ?」

「申請ではゲート1だから、そうだね」

「専用機は、こう言ってはなんですけどその、」

「……注文が多くて、な。特に今期のAM便はね」

「優先で出せ、とか、さっさと接舷許可を出せ、とか。この間なんか先の便がゲート待ちしてるところに割り込ませてきて、“なぜ私を最後尾で待たせるんだ!”って、こうですよ」

「まあ、操縦士が悪いわけじゃないしな。積んでる“荷物”が問題なだけで」

「……MN005、そのまま続いて航路Dを使用してください。ん? 旧式のシグナルを受信。え、マジかよ……ゲート0からです!」

「誰か、局長を呼んできて! 最優先!」

 


AM01 キャビン;

「ゲート使用許可はいつになったら出るのかね」

 キャビンの主は秘書にそう尋ねる。

「本日は便が多いようなので。管制からの指示が出るまでしばらくお待ちを」

 秘書は慇懃な態度で、あくまでも事務的に答える。

「管制は我々のことをなんだと思っているんだ。公用で火星に向かう私をなぜ優先にしないのかね。第一に、だ。0番ゲートなどというあんな古ぼけたもの、便数の多い惑星行きに割り当てればいいではないか」

 相変わらずこの人は口数が多いな、と秘書は思っている。それに、これだけの地位に就いたというのにゲート0のことを分かっていないのでは? もし分かって言っているのであればそれはそれでまた悪質だが、と、秘書は苦々しく思っている、心の中で。

「ラチがあかんな。……パイロット、パイロット!」

 「はい、いかがいたしましたか」

キャビン内のモニターに精悍な表情の操縦士が映し出される。

「まだかかるのかね。いつまで待てばよいのかね。我々は急いでいるんだ。いったい管制は何を……」

「分かりました。管制に問い合わせてみます」

 この操縦士は優秀だ、この男の扱い方が分かっている。秘書は胸を撫で下ろした、心の中で。

 


軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

「……ゲート0から通信だって?」

 息を弾ませて、局長が駆け込んでくる。

「はい、間違いありません。この通信プロトコルは、ええと、ケンタウロス星系ですね」

「AM01から管制。ゲート1の使用許可を。客人が騒ぎ始めた。あと何機くらい待機してるんだ?」

「……航宙管制よりAM01へ。すまないが全機現在位置で待機を。事情は局長から話します。……私たちは歴史の証人になるぞ!」

 


軌道ハブステーション「ジンベエザメ」からのオールレンジ放送:

「軌道ハブステーションおよび航宙管制宙域の皆さんへ。航宙管制局局長よりお知らせです。

 現在より、航宙法第二〇七条及び星系移民条約第一項に基づき、管制宙域での一切の航行の停止を命じます。ゲート0の往還を最優先とし、他ゲートはすべて閉鎖します。

 軌道ハブステーション職員各位。緊急時対応マニュアル0に基づいて行動を。

 さあ、英雄たちの帰還を歓迎しよう!」

 


火星域航宙管制局からの入電:

“クソ、こんな歴史的な日になんだって俺たちは火星なんかにいるんだ!”

 


 およそ1世紀半ほど前。

 星間ゲートを使用した星間航法理論が確立、外宇宙への航行が現実のものとなった。しかしながらこの理論では、往還の為には双方に星間ゲートが存在することが条件であった。

 “それでは我々が先鞭を付けよう、我々が外宇宙へ向かい、そこでゲートを構築しよう。必要な資材だけ送ってくれ。我々はただ、外宇宙が見たいのだ!”

 そして外宇宙への探査プロジェクトが開始された。幾多の冒険家、野心家、山師がこの企画に集った。

 ただ一つのゲートを築き、地球型惑星が存在するであろう星系へと彼らは旅立っていった。

 


 狂熱はいつしか醒める。

 


 10年、15年、20年。

 ゲートアウトしてくるものたちは現れなかった。定期的に送られていた資材・物資は、次第に滞りがちになった。そして輿論はプロジェクトに対し懐疑的となっていった。

“20年もの間、我々は資材を送り続けていった。それに見合う成果は本当に現れるのか?”

 


開始から55年を以って、プロジェクトを中止とすることが決まった。うち5年は、プロジェクト関係者の努力による延長である。その5年のうちに、彼らに出来得る幾つかの手を打った。

 航宙法に外宇宙探査団の優先権を明記するよう法改正を急いだ。

 併せて、星間移民条約の批准を国連を通し各国に働きかけた。そう、彼らがいつでも、いつまでも英雄として凱旋できるように。

 そして、ゲート0の永久保持。英雄たちの凱旋のためゲート0はこれまで100年その場にあり続けた。

 


 そうこうするうち、月、火星、木星の衛星についての開発が軌道に乗り、本格的な移住が始まった。外宇宙を目指さなくとも、移民はできるのだ。

 

 

 

 


 AM01キャビン:

 目先の利権、それこそが我々人類に最も大切なものではないか!  キャビンに陣取る主人はそう思っている。ルーレットでいつ出るか分からない7に賭け続ける者などいない。赤か黒、はたまた奇数か偶数か、だろう。政治家というものは、有権者と支持団体の目先の利益のために動くものだ。

 「航宙管制からのオールレンジ放送です」

 パイロットの冷静な、どこか抑えたような声が流れる。

 


 AM01 コックピット:

 「ジンベエザメ」からの放送をキャビンに繋ぎ、パイロットはコックピットからの回線を静かに切った。

 そして飛び上がるようにして、雄叫びのような歓声をあげた。

「マジかよ! ゲート0が! あそこからゲートアウトしてくるって?! それも今から?! Yeah, Fxxkin‘ great!」

 


軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

「ゲート0、ゲートアウトまで推定27分30秒」

「 ポート01A、受け入れ準備完了してます」

「……AM01から至急の入電です。繋ぎますか?」

 


AM01 キャビン:

「これはどういうことかね!」

 苛ついた声で、キャビンの主人は一人がなりたてる。

「航宙法第二〇七条の適用です。止むを得ません」

 秘書は努めて冷静に伝える。

「航宙法がどうしたというのだ。我々は少しでも早く火星の会議へと向かわねばならんのだ! 管制は一国の代表である我々のことをなんだと思っているのかね!」

 会議の参加者だって、二〇七条であれば遅れても納得するだろうに、場合によっては会議自体中止でパーティーが始まってもおかしくない事案だ。口に出そうとしたが、言ってしまえば火に油だな、まったく、と秘書は思った、心の中で。

パイロット! パイローット!!」

「はい、何でしょう」

 特に変わった風も見せずに、パイロットがキャビンのモニターに映し出される。

「こちらの回線を航宙管制に繋げ! 私が直接話をする!」

 


 軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

「航宙管制。こちらAM01。お客さんが騒ぎ始めた。ありえねぇ。直接そちらに繋げって言っているんだが、どうします」

「AM01、局長です。こちらに繋いでいただいて結構です。返事は決まってますがね」

「あ、局長、ご配慮ありがとうございます。では繋ぎます」

 


 軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

 AM01の主がコンソール右上隅に映し出される。冷静を装っているつもりらしいのだが、誰が見てもその努力は無駄であるな、とわかるままに話し始めた。

「航宙管制局長、お初にお目にかかる。不躾だが、状況を説明してもらえるだろうか」

「直接のご連絡、恐れ入ります。ご覧になっていただいているかと思いますが、局員がゲート0の対応で手が離せない状態でして。申し訳ないですが私が対応をさせていただきます」

「別に君たちの状況を教えろ、と言っているのではない。いつになったらゲートを使えるようになるのかを聞いているのだ」

「先ほどの放送の通りです。局長権限による航行の停止を解除するまで、です」

「我々はこれから重要な会合がある。ここで留まっているわけにはいかんのだ。ゲート1の優先使用許可を今すぐ出したまえ」

「大国の首領ともあろうお方が航宙法第二〇七条をご存じない! これはなんたる悲劇だ! いや、喜劇、でしょうかな」

「私をバカにしておるのかね」

「いえ、わがままなお坊ちゃんに言って聞かせているだけですよ?」

「一体航宙法がなんだというのだね! 何かをもたらすかどうかも分からない調査団の帰還より、重要なのは今、この世の中を確実に動かすことではないのかね! 我々はまさに、その今を動かしているのだよ!」

 


AM01キャビン:

 訂正を願いたい、今、この船内でそのように思っているのはあなた一人だ。歴史が無ければ今は無い。彼等は外宇宙へ赴き、そこにゲートを構築し、還ってきたのだ。つまり我々は、外宇宙へ往還し得る手段を得たのではないか! 秘書は口の端に僅かな嫌悪感を表して、そのように思った、心の中で。

 


軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

「よろしい。それではたった今、連合議会に対し緊急の動議を提出する。航宙法第二〇七条の恒久的な凍結を提案、即時発効を求める。宜しいかな?」

 全てのオペレーターが、ほんの一瞬手を止めた。思いは一つ、“本気か? この人”。

 


AM01キャビン:

 ああ、これで私も悪役側か。

 休暇を取りたいな、今すぐにでも! そうだガニメデ辺りがいい。動議の手続きを手早く済ませながら、秘書は切実に思った、心の中で。

 なんなら、永遠の休暇でも構わない。

 


連合議会 議題受付【緊急】:

「動議を受け付けました。議題、第四八一九。至急案件です。内容はお手元に転送した資料をご確認下さい。連合議会参加国及び指定行政区代表は十分以内に可否の表明を」

 


 どこか冷ややかな声が流れる。

 航宙管制では休む事なくゲート0からの帰還受け入れ準備を粛々と進めている。

 

AM01キャビン:

秘書は人目も憚らず頭を抱え俯いている。主人は自らの居場所で踏ん反り返り、採決の結果を待っている。見ていろ、過去の亡霊は今日で払拭してやる、と息巻いて。

 


連合議会 議題受付【緊急】:

「採決終了。賛成3、反対712、棄権5。本議題は否決されました」

 


連合議会 議題受付【緊急】:

「動議を受け付けました。議題、第四九五三。議題四八一九に対する非難勧告。加盟国および特別行政区代表は十分以内に可否の表明を」

 


軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

「ゲート0、ゲートアウトまであと1分30秒。識別信号の照合完了、ケンタウロス星系探査船団『アントニウス』のものです」

「『アントニウス』、こちら航宙管制です。受信状況はいかがでしょうか」

「ゲートアウト後は管制の指示に従ってください。接舷ポートまで誘導します。

 我々は、皆さんの帰還を歓迎いたします!」

 


連合議会 議題受付【緊急】:

「議題、第四九五三。採決終了。賛成710、反対1、棄権9。本議題は可決されました」

 

 

 

軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

 


「ゲート0、「アントニウス」ゲートアウトします!」

 

 

 

ゲート0を寒冷色のプラズマ光が覆う。その覆いを押し分けるように、およそ100年前の、古ぼけた艦船の先端が顔を表す。そして次第に、『アントニウス』がその姿を現していく。

 

 

 

AM01キャビン:

非難決議からこのかた、この船の主人はソファに身を沈めたまま、じっと天井を見上げている。

秘書は蓋を閉じた自らのラップトップ端末に肘をつき、うなだれて頭を抱えている。

非難決議か。同盟国すら反対に回ってくれなかった。棄権するのが精一杯か。

コクピットから時折、奇声と思しきものが漏れ聞こえてくる。

 


事情は何であれ、AM01には今現在、航行をする気がなくなっている。

 

 

 

軌道ハブステーション「ジンベエザメ」航宙管制:

 


「航宙管制局長より『アントニウス』へ。

長い、長い旅程、ご苦労様でした。

我々はあなた方英雄の帰還を歓迎します!」

 

 

 

 


 

 


附則:

 


航宙法第二〇七条:

“外宇宙への往来をする船舶は、全てに於いてその航行を優先する。他の船舶はその往来を妨げてはならない。”

 


星間移民条約第一項:

“条約に加盟する国家およびその民族はすべて我等の先鞭となる開拓者に対し、最大限の敬意を払うものとする。”

 

信心

「なんだね、君のその態度は! “お客様は神様”じゃないのか!」

「そうかもしれないんですが、その」

「その、何だね!」

「“信教の自由”、ってのがありましてね。まあそういうことです」

 

 

旅に出るならこの乗り物で

 飛行機と、夜行列車と、バスの旅が好きなのです。

 

 飛行機は、飛行機に乗るための手続きが好きなのです。正直言ってしちめんどくさい、しかしそのしちめんどくささが、これから遠くへ旅立つのだという思いを高めてくれるのです。

 飛行機が沖留めで、移動タラップで乗り降りするなどはもう、何か自分が選ばれた人間になったような誇らしさすら感じます。

 国際線などの

ビーフ or チキン?」

という呪文というか合言葉というか、あれもまた趣深いものです。

 

 夜行列車は、これから旅をするのだ、というときめきに満ちています。食堂車など連結していればなおよろしい。

 夜行列車については寝台料金による位付けもまた魅力の一つです。それは必ずしも、高い料金が最も楽しいとは、ーー捉え方の差ですがーー、限らない、というところが良いのです。

 ひとり個室寝台で旅行をするのもいいですが、開放式の二段ベッドで、或いは仲間と、また或いは偶然乗り合わせた見知らぬ人と語り合い、はたまた車窓の闇の中、時折流れていく街の灯や通過駅の青白い光を飽くまで眺めているのも、何物にも変え難い経験というものです。

 かたたん、かたたんという心地よい振動とともに夜通し走る列車、白々といつしか夜は明けて目的地が近づくそのさまの美しさ。夜行列車には浪漫がぎっしりと詰まっているのです。

 

 実際にはそんなことはないのですが、バスの旅、それも長距離バスの旅というのは、どこか後ろ暗い感じがするのです。

 思いつめた、後がない、夢破れた。乗り込む時にそんな心持ちになるのです。多分それは、サイモン&ガーファンクルの『America』という曲の、グレイハウンドに乗ってアメリカを探しに来たんだ、というカップル、でも決して幸せそうではない二人に引きずられているんですね。

 あ、いや。もちろん実際にはそんなことはないんですよ。バスの旅は楽しいし。

 

 まあここまで見返すと、みんな一人旅仕様の好みですね。やっぱり私には友達がいない。

 

 

山手線ホテル

障害対応が長引いて、結局終了したのは深夜2時過ぎ。金曜夜に発覚したのだけがまだ救いだ、タクシーで帰らなくて済むし、徹夜明けの翌日業務も無い。始発を待って帰ることにするか。

夜が明けつつある空を見上げ、大欠伸を一つ、伸びを一つ。今月はなんか忙しかったなぁ、これで一段落となってくれりゃあいいんだけど、いまのドタバタじゃあそうもいかないだろうなぁ。

山手線のホームには、およそ徹夜明けのご同輩がポツリポツリと並び、始発電車が入線してくるのを待っている。まあみんな他人のことなんざ気にしてない、自分のスマホに目を落としている。

電車がホームへ滑り込み、みんな我先にと乗り込んでいく。そして俺も。シートに座ると途端に目の前が暗くなる。気がつくと三つ先の駅。こりゃあダメだ。

まあいいや開き直ろう。一度やってみたかったんだよ。いい具合に端の席も確保できた。

 

何周するかわからんけれど、寝たいだけ、寝る!

 

 

 

山手線