多分、粗忽なんじゃないかな、という長屋

 「粗忽長屋」、という落語があります。


 浅草寺門前に行き倒れがある、というので見物にいった八兵衛、その行き倒れがとなりに住んでる熊にそっくりなので慌てて長屋へとって返し、

「熊、お前が浅草寺の前で行き倒れてるから早く来い!」

と、熊を浅草寺へ連れてくる。熊は熊で何の事かさっぱり分からず(俺が行き倒れてるって?)、仕方なく付いていく。

 行き倒れの顔を確かめると成る程なんとなく熊に似ている。

「ああ、これは俺だ、俺に間違いねぇ」

 と、熊。さっそく長屋へ運ぼうと、行き倒れを戸板に載せて長屋へと向かう。

「はて。この戸板に乗っている行き倒れは俺だが、戸板を担いでる俺は誰だ?」


 

 「それは、"どっぺるげんがぁ"じゃな」

「ああご隠居、何です、その"どっぺるげんがぁ"ってのは。それよりもよく追い付いてきましたね。歳の割には健脚だ」

「そこはそれ、大人の事情というやつだな。

 もとい、"どっぺるげんがぁ"というのはだな、遠く西洋の物の怪のひとつだ」

「へぇ。むじなみたいなもんですかい?」

 「まあそんなところだな。この"どっぺるげんがぁ"を見かけるとだな、数日のうちに死んでしまう、とこう言われておるのだ。それが証拠にほれ、その戸板の上にお前さんが転がっているだろう」

 「いやでもご隠居、なんかおかしくねぇですかい? そのなんとかってやつを見たらおっ死んじまうのに、俺ぁピンピンしてますぜ」

「……熊よ、その戸板を担いでるお前は本当に熊か?」

「馬鹿言っちゃいけねぇよ、いくらご隠居だからって怒りますぜ」

「それでは、お前は熊なんだな」

「そりゃそうですよ」

「それで、戸板の上にいる行き倒れは誰だ?」

「そりゃあ、……、俺? あれ?」

「いましゃべっているお前が本当の熊だと、誰が保証してくれるんだい?

 さっきお前さんが言ったな、"どっぺるげんがぁ"を見たら死ぬはずなのに、俺はピンピンしていると」

「ってぇことは、まさか。えぇ? 俺が"どっぺるげんがぁ"?」

「理屈で言えばそういうことになるな」

「そんな馬鹿なことあるかい。おい、八。お前なんとか言ってくれよ」

「いやぁ、俺もなんかおかしいと思ってたんだ。お前、本当に熊か?」

「お前までなに言ってやんだよぉ。……そうか、俺ぁ自分じゃ分からないうちに"どっぺるげんがぁ"って奴になっちまってたのか。そんなんなったら仕方がない、大川にでも飛び込んでしんじまおう」

 

「おう、熊、早まった真似をしちゃあいけねぇ」

「だれでぇ、てめえは……え? 俺なのか?」

「そう、俺はお前だ。そしてその戸板の上にいるのも、お前だ」

「……何かおかしなのが出てきちゃったなぁ、おい」

「この事象はドッペルゲンガーなどではない、ということだよ。

 俺たちは、"可能性"だ。それが何かの間違いで、この時代のこの場所へ集まってしまった」

「悪い、なに言ってんだか全っ然わかんねぇ。それよりも、お前も俺と同じ熊だってんなら、なんでぇその学者さんみたいなしゃべり方は」

「私のいたもうひとつの世界では、私は学者だ。つまり、熊という人間が学者となっているかもしれない世界があるわけだ」

「なんか分かったような分かんねぇような話だな。それはそれとしてだ、この行き倒れちまった俺をどうにかしてやんねぇと。こいつも俺だっていうんなら不憫じゃねぇか」

 と、戸板をえっちらおっちらと担いで長屋へ戻って参ります。長屋の衆にこれこれこう言う訳だ、と説明をするのですが、そこはまあ粗忽な熊のことですので、最後には、俺の葬式を俺が出す、となんだかよく分からない話で言いくるめてしまいます。長屋の連中も心得たもので、まあ熊の言うことじゃこれ以上なんか出てこないだろうと、さっさと棺桶の手配と湯灌の準備に入ります。

 まあとりあえず落ち着こうと家に入ろうとすると、向こう隣のかみさんから

「熊さんさあ、あんたが朝方飛び出して行ってからね、なんか誰かいるような気配がすんのよ。気を付けた方がいいわよ」

などと言っている。

 そんなわけぁねぇよ、誰かいたとしても、盗ってくものなぞなんにもねぇや、などと言って戸をガラガラ、と行きたいところですがまああまり上等な造りではないので、ずる、ガタ、ずるずる、ガタガタと出来る限りの勢いで戸を開ける。

 部屋の中を見て、うわぁっと飛び退き腰を抜かす。

 四畳半ほどの部屋のなかに七、八人、熊とおんなじ顔をしたのがひしめき合っている。それが一斉にこっちを向いたら、そりゃあ熊も腰を抜かします。

 

 「な、なんだお前ぇらは! どっぺるげんがぁか、へーこー何とかか! いったいどっちだ!」

 

「俺たちは、お前だよ」

「これからな、一人ずつ消えていくんだ」

「そこのそいつみたいに死んじまうかもしれない」

神隠しなんぞに遭うかもしれない」

「そして一人ずついなくなって」

「最後に残ったのが」

「この世界の"熊"だ」

まあ一人はうなずいているだけですが。

 

「んなこたぁ、今は置いといてだな。これから俺の葬式出すんで人手が足りねぇんだ、おう、オメェらも手伝え」

 七人だか八人だかの熊がお互い顔を見合わせて、

「なあ、話聞いてたか?」

「ああ聞いてるよ。なんか一人づつ消えてくんだろ? でも今はそれどころじゃねえだろう。“俺”がいま、ここで死んでるんだ、葬式出すのにいくら人手があったって足りねぇんだ。おう、テメェらも“俺”だってぇんなら、“俺ら”の葬式なんだ、ンなところでボサッとしてねぇでとっと表出て手伝いやがれ!」

 

 土間を合わせて六畳ほど、そんな長屋の戸がやっぱりガタピシと開く。そこから出てくるのが、おんなじ顔した熊、熊、熊……。長屋連中も唖然として、と思いきや。

「おう熊、おめぇこんなに兄弟がいたのか。手廻しがいいなぁ」

「おい、そこの熊とそっちの奥の熊。これから湯灌にするからこっち来て手伝え。それからそっちのなよっとした熊、おめぇは大家ん所行って、これこれこう言う訳で葬儀を出したく、って挨拶してこい。……なぁにグズグズやってやんでぇ、てめえら、自分の葬式出すんだ、グズグズしてねぇでとっとと行きやがれ!」

 

「八よぉ、あんまりポンポン言うもんじゃねぇよぅ。俺が文句言われてるみてぇでなんか気分悪ぃよ」

「お、おお悪かった。でもよ、お前、本当に熊か?」 

「そうに決まってるじゃねぇか! 熊だよ、お前の知ってる熊だよ!」

「ふぅん、へぇ、ほぉ。……まァ信じてやるよ。俺ぁちっと疲れた。人手も足りてるし、ちっと休むわ」

 

 と、八が自分の部屋の戸をこれまたガタン、ザリザリ、ガタンと開ける、途端にうわぁ、っと八の悲鳴、八が腰ぃ抜かして飛び出してくる。

 

「なんだ、どうした! 何があったんだ、八!」

 

「お、俺が、……俺が十一人いる!」

 

「なに、それはえらいことではないか」

 声のする方を振り返ると、ご隠居がぞろぞろ二十四人……。

 

 

ちゃんちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

「真景 累ヶ淵」を読む  伍・豊志賀

主な登場人物

  • 豊志賀   : 冨本節の師匠。宗悦の長女、お園の姉。
  • 新吉    : 煙草屋の惣吉の甥。その実深見新左衛門の次男。
  • 久     : 羽生屋の娘。豊志賀の弟子。
  • 惣吉    : 煙草屋。新吉を育てる。
  • 三蔵    : 久の叔父。下総国羽生在住。名前だけ登場。

 

あらすじ

 深見新五郎の騒動から十九年。

 宗悦の娘豊志賀は四十九の大年増、冨本節の師匠をし、大層な人気であった。煙草屋の新吉は稽古が好きで、豊志賀の所へと色々世話を焼きに行く。豊志賀も心覚え悪くなく、いつしか新吉は豊志賀の家に居着き、男女の関係となる。

 新吉は旦那面しているので他の男衆は面白くなく、寄り付かなくなる。身持ちが固いからと豊志賀に娘を預けていた家もこのような様ではとても預けられぬと、弟子もみるみると減っていく。そんな中ただ一人、おひさという娘だけは変わらずに稽古に通ってくる。継母の当たりがきつく、それから逃れるように通ってくるのだが、豊志賀は、これは新吉目当てに違いないと嫉妬に狂い、お久に辛く当たる。

 ある日、豊志賀の目の下当たりにぽつりとできものが。それがみるみるうちに顔半分に広がり膿み爛れてしまう。痛みに食も通らず痩せ細り、終には床も上がらなくなる。それでも新吉は看病をし、お久も色々と手伝いにやって来る。そんなお久に豊志賀は、お前は新吉目当てに見舞いに来るのだろうなどと憎まれ口。

 そういった豊志賀に少しばかり嫌気も差して、羽生村の親戚を頼ろうかと思案をしながら夜道をフラフラしているとばったりと久に会う。豊志賀の辛く当たるを互いに労おうと新吉はお久を寿司屋に誘う。

 寿司屋の座敷で二人きり、聞けばお久も羽生村に所縁があり、三蔵という叔父がいるとのこと。それでは二人で羽生村へ行ってしまおう、と持ちかけるが、お久は師匠に義理立てできぬ師匠は野垂れ死んでしまうと頚を縦に振らない。たとえ豊志賀が野垂れ死にをしようとお前が一緒に行ってくれるというのなら、と新吉。

 本当に豊志賀が野垂れ死んでも一緒に行ってくれるかい?

 勿論だとも。

 

 えゝ、お前さんという方は不実な方ですねぇ

 

 見ればお久の目の下に出来物がぽつり。それが次第に広がり膿み爛れ豊志賀が姿となり恨めしそうに見上げている。慌てて一人逃げ出す新吉。

 叔父の惣吉のところへ駆け込むと、丁度豊志賀が来ているとのこと。奥の部屋で畏まる豊志賀は新吉に、今まで世話を焼いてくれたことへの感謝と嫉妬のあまり皆へ辛く当たったことへの詫びを入れ、お久と一緒になるなら私も応援をしようと語る。

 病気の身であるからと駕籠を呼んで家まで送ろうと豊志賀を乗せたところへ長屋のものが駆け込んできて、たった今豊志賀が息を引き取ったと。

 そんなはずはない、たった今までここに居て、駕籠に乗せて返すところだと言うが、駕篭の中には誰も居ない。

 長屋へ戻ると確かに豊志賀は亡くなっている。長屋衆が湯灌をするので豊志賀の亡骸を移したあと、床を上げると新吉に宛てた書き置きが一通出てくる。

 

 年下の新吉と今まで夫婦のように尽くしたが、私が大病で床から出られぬのを良いことに他の女と会っているとは。私は間もなく死ぬだろうが、

その時には新吉にまとわりつき、

嫁を持つなら七人まで呪い殺すからそう思え。

 

 

 雑記

 宗悦の上の娘、志賀のお話です。かなり怪談めいてますね。所謂"若い燕"の新吉と一緒に夫婦気取りで暮らし始める。このとき豊志賀は四十九、新吉は二十二。親子と言ったっておかしくないほどの歳の差です。父宗悦が何者かに斬り殺されてから、身持ちも固く冨本節のお師匠さんをやってたところにやっと迎えた春です。

 誰かに新吉を取られやしないかと疑心暗鬼になって、お弟子さんたちに当たる。特にお久という娘には殊更。これはみんなどこかに持っているのではないかなと思います、男であれ女であれ、程度の差こそあれ。恋敵、一方的に思っているにしてもですよ、相手のことをどこか色眼鏡で見てしまう。

 それでもお久は通ってくるんですね。お久の継母のイビりがひどくて、まだ豊志賀にお小言を言われているほうがマシだったんですね。でも豊志賀のほうとしては、これだけ辛く当たるのに通ってくるのは、相当に新吉を狙っているに違いない、ああ口惜しや、となるわけですな。

 そんな心根が表に出るように、豊志賀の顔に腫れものができ病がちになって床から上がれなくなってしまうのです。

 それでも新吉はちゃんと面倒を見てやってるんですね。でも豊志賀がお久に辛く当たるのは何にも変わらない。だんだん心が離れていく。いっそ逃げ出してしまおうか。魔が差す、というやつです。そんなことを思いながら街をふらりと歩いていたら偶然お久に会い、身の上を聞いてしまったと。

 ここで寿司屋の座敷に誘っている時点で、新吉、もう豊志賀を捨てて逃げる覚悟ができてますよね。そしてお久に情が移ったのを、好いたと勘違いをしたのかもしれない。二人に所縁のある羽生村、今の茨城県ですね、に行こう、と。

 

”それでは、お師匠さんはどうするの、野垂れ死んでしまうわ”

”それならそれで構わないさ”

 

 ……一番の聴かせどころですね。

 ここまでの話でね、お久って絶対可愛らしい声をしてると思うんです。それが突然、豊志賀の、恨みのこもったような声に変わる。姿も豊志賀のように、顔が醜く腫れ爛れ、膝に手を置いて見上げるように新吉を覗き込む。

 そりゃあ転がるように逃げ出しますよ、見た目はお久じゃないんだもの、豊志賀なんだもの。

 で。おじさんの惣吉のところへ行くと、豊志賀が来て奥、ったって二間くらいなもんだと思うんですが、で待っていると。新吉の行く先々に豊志賀が現れるわけです。話を聞いてみるとしおらしく、あたしが悪かった、お前が別の若いのと一緒になるのならもう止めやしない、むしろ助けになりたいくらいだ、とまで言っている。

 

 体に障るからそろそろ帰んなと惣吉、駕籠を呼んで、豊志賀が乗り込むところまでは、新吉はおろか、惣吉、駕籠掻きまでもがしっかと見ている。とそこへ豊志賀のいる長屋から人がやってきて、豊志賀が死んだ、と。

 そんなわけはねえ、と駕籠を覗くと、誰もいない。確かに乗った、掻き手も確かに重さを感じた。

 仕方がないので長屋に戻ると、確かに豊志賀はそこで亡くなっている。

 

 で、新吉は、豊志賀の書置きを見つけてしまいます。

 

 あんなん見つけたら、小便ちびりますよ。

 

 この豊志賀と、次のお話への流れ、ここは正しく、日本の怪談ですよね。根っこにあるのはただ一つ、「恨み」です。長い長い「真景 累ヶ淵」の中では、この豊志賀の祟りっぷりがダントツです。しかもこの二人、知ってか知らずか図らずも、深見家と皆川家の因縁を引き摺るわけです。少しの間はなんであれ恋仲だったんですけどね……。

 

 

 ちょっと長いお話になりまして、お付き合いいただきありがとうございました。

 次回は、禄話目になります。題はその時になってから。

 

 

「真景 累ヶ淵」を読む  四・新五郎捕物

主な登場人物

  • 深見新五郎   : 深見家嫡男。お園を殺し店の金を奪って逃走中。
  • 春       : 荒物屋女将。
  • 金太郎     : 捕者(岡っ引き?)。

 

あらすじ

 故意でないとはいえお園を殺めてしまい、店の金を百両奪って逐電した深海新五郎、剣術の師匠を頼って仙台で身を潜めていた。

 身を潜めて三年ほど、そろそろほとぼりが冷めたろうと江戸へ戻り、昔、深見家に仕えていた下男を頼り深川へ向かうが、何やら付けられている気配を感じ、近くの荒物屋(雑貨屋と駄菓子屋を兼ねたようなもの)に飛び込む。

 荒物屋の女主人・春に、この辺りに深見という屋敷に仕えていた者はいないかと問うと、それは私の父で、前年に亡くなったと。これも何かの縁なのでここでゆっくりお休みなさい今うなぎでも買ってまいりましょうと、春は表へ出るとそのまま捕者の金太郎の元へ。春には元々これこれこういうものが来たら伝えるようにと言い含められていた。

 報せを受けて荒物屋へ向かい、うなぎ屋を装って捕らえようとするが、新五郎は手近の包丁で切りつけ抵抗、屋根に上がり逃走を図る。

 路地には捕手が待ち構え降りるに降りられず、まだ捕手の手が回っていない先に藁を積んだところが見えたので一か八か飛び降りる。藁の中になんとか着地したが、足をついたその下に押切があり、足をざっくりと切ってしまう。

 新五郎、そのまま捕らえられる。

 奇しくもその日はお園を殺めた日と同日であった。

 

 雑談

 新五郎捕縛の一幕。人死には出ません。いや、この話の後で出る筈です。

 

 しかし何故、新五郎は江戸に戻ろうと思ったんでしょうかね。いくら昔馴染みの下男がいるからと言って、お園を殺して百両盗んで下總屋から逃げ出している時点で捕まれば死罪確定の凶状持ち、そうそうお天道様の下なんか歩けはしません。仙台に引きこもっていた方が遥かに安全なはずなのですが。

 まあここは、皆川家の怨念が呼び寄せたものだとしましょう。

 

 ここは荒物屋に入ってから捕縛までの大捕り物を楽しむところですね。女主人・春の機転から捕手の金太郎がうなぎ屋に変装して乗り込む、最初はうまい具合に逃げ出す新五郎が段々と追い詰められていくまでのスピード感なんかは、ちょっとした刑事ドラマのようです。

 進退窮まって、一縷の望みを賭けて飛び降りた先に押切が。そう、お園を殺してしまったあれで足をざっくりとやってしまう。この辺りもお園の怨念、そして深見家と皆川家の因縁でしょう。

 先に記した通り、お園の件が過失だとしても(まあ殺しってことにされるでしょうが)、百両盗んでいる時点で死罪、逃亡時に捕手にけがを負わせているので、最悪獄門は確定なので、このお話の外で深見新五郎は処罰をされることでしょう。

 

 さて。

 ここまでで、「真景 累ヶ淵」の序章の幕が下りました。

 深見新五郎捕縛の十九年後から、お話の本編が幕を開けます。

 

 怪談噺らしくなってきます。

「真景 累ヶ淵」を読む  参・お園と深見新五郎

主な登場人物

  • 深見新五郎   : 深見家嫡男。訳あって下總屋で働く。
  • お園      : 下總屋女中。皆川宗悦の次女。
  • 下總屋惣兵衛  : 下總屋主人。
  • 三右衛門    : 元深見家下男。

あらすじ

 荒んだ深見家が嫌になって逐電をした深見新五郎、元下男の三右衛門のもとに身を寄せていたがn田舎暮らしにも飽きて江戸へ戻ると深見家は改易、父母も非業の死を迎えたことに世を儚み墓前で切腹をしようとしたところを、通りかかった下總屋惣兵衛に拾われ、そこで働き始める。

 惣兵衛の店、下總屋にはお園という娘が住み込みの女中として働いていた。このお園、新五郎の父深見新左衛門が斬り殺した皆川宗悦の次女。それとは知らず心惹かれる新五郎、お園が風邪をひいたとなると毎日のように看病に通う始末。お園はお園で理由が分からぬがその気はなく、むしろ避けていく。

 或る日新五郎は、これできっぱりとあきらめるからとお園に頼み込んで、一晩だけ添い寝をする。お園は背を向けたまま。

 新五郎、結局その夜のことが忘れられず。幾日後、店の修繕のために積んであった藁の所にお園を待ち伏せ、想いを遂げようとする。嫌がりもがくお園。力づくで抑え込む新五郎。押し倒した先に、藁を切る押切が。お園は押し倒される度に押切でざくざくと背を斬られ、やがてこと切れる。

 動かなくなったお園を見て新五郎は混乱、店から百両の金を奪って仙台のに移り住んだ剣術の師匠を頼ってまたも逐電する。

 

雑談

 ここでは怨念ではなく、因縁のお話となります。宗悦を斬り殺した深見新左衛門の嫡男新五郎が、其れとは知らず宗悦の娘お園に恋慕する。お園は父の仇の息子と知らぬも、理由も分からず新五郎を毛嫌いする。

 それが結局、図らずもお園を殺してしまう、という悲劇を招く。宗悦殺しと同じく、深見家の者が宗悦の血筋のものを殺す。因縁、です。

 

 結局、男は未練たらしい、というのがここでのお話ですが。

 

 お話の中に出てくる”押切”というのは、紙を裁断するときのアレなんですが、最初はあれで背中をざくりと切る、といのがちょっと分からなかった。取っ手を握って指でも置いておけばそりゃあすとんと落ちるだろうけど、背中を押し付けても深く傷になるもんじゃないだろうと。

 農家に生まれたうちの母に聞いたら正体がわかりました。藁をザクザクと切るためのものなんで、上下両方とも刃物になっているものだそうです。そりゃあ押し付ければ深く斬れますね。

 新五郎は何とかお園をものにしようとしてますから無理やり力ずくで何度も圧しつける。お園もたまったもんじゃあないです。

 

 さて江戸から逐電した新五郎、次回はその後のお話となります。

 ……まとめちゃってもよかったんですが、一回に死ぬのは一人にしておきたいかな、と。

 

「真景 累ヶ淵」を読む  弐・新左衛門乱心

主な登場人物
  • 深見新左衛門  : 小普請組の旗本。
  • 新左衛門の奥方 : 深見新左衛門の妻。
  • 深見新五郎   : 深見家嫡男。
  • 深見新吉    : 深見家次男。
  • お熊      : 女中。
  • 勘蔵      : 門番。
  • 皆川宗悦    : 鍼医者。副業で高利貸。新左衛門に斬り殺された。

 

 あらすじ

 宗悦の惨殺体を見てからというものの、奥方は心を病み床に臥せりがちになる。奥方の看病のため、剣術道場へ住み込みで修行に出していた嫡男新五郎を家に呼び戻す。これだけでは家のことが立ち行かなくなると、お熊という女中を入れる。新左衛門はお熊に入れ込み始め、ついにはお手付きとなる。

 お熊、子を宿してからというものの増長をしていく。新左衛門に奥方や新五郎の悪い噂を吹き込む。これでは跡目を継ぐもままならぬといたたまれなくなって、新五郎は家を出てしまう。

 ある日奥方があまりに苦しいと訴えるので、流しの鍼医を呼んで、暫く通って治療をさせるが、最後の日に打った鍼がどうやら塩梅よくなく、胸のあたりに激しい痛みが残り水がじくじくと出てくる。

 その鍼医を叱責しようと毎夜待っているがなかなか現れない。やっと通りかかったのを勘蔵が連れてくるが、やせぎすの俄按摩師、病人は揉めないというので新左衛門が揉んでもらうことになるがこの按摩がどうにも痛く,加減せよと言っても一向に弱める気配がない。

 

”あなた様の脇差で肩から乳の辺りまで斬られた痛みは、

こんなものではありませんからナ”

 

 按摩師の顔を見ると、先の按摩師の顔ではなく宗悦が見えぬ目を見開いて新左衛門を睨みつけている。おのれ化けて出おったかと一刀のもとに斬り伏せると宗悦どころか按摩の姿すら見えず、代わりに厠へでも向かおうとしていたか奥方がバッサリと斬られて倒れている。

 

 奥方は病にて亡くなったと何とか取り繕うたが、役柄として他の旗本の諍いの調停に行った際、深見新左衛門は槍で突き殺されてしまう。お家は改易、お熊は生まれた女児を抱えて深川へ。次男の新吉は勘蔵が引き取り大門町へ。自らの子として育てることとなる。

 

雑談

 宗悦の呪いか、深見家の家中がガタガタに。奥方は心を患って床から離れられず、そりゃそうだ、手持ちの蝋燭の明かりン中でどす黒い血に塗れた宗悦の死体なんぞ見た日にゃ、まともじゃいられませんわな。

 で、看病のために息子を呼び戻す。これだけじゃ家の中のことができないから、女中を入れる。気が付けば女中に入れ込んで女中に入れてる。深見新左衛門、酒色に溺れてまいります。これも酒に酔った勢いとはいえ、宗悦を斬った負い目なのかどうなのか。

 女中のお熊、そりゃ入れてますからお子ができる。奥方と息子さえいなけりゃ私が旗本の妻よ、と思い新左衛門の嘘八百を吹き込んでいく、家庭内はぎすぎすしていく。家庭崩壊です。嫡男新五郎はそんな家庭にいたたまれなくなって逐電、姿をくらまします。

 

 そんなある日、奥方が鍼医の治療を受けます。おそらくこの辺りは、のちの按摩を呼ぶ話への伏線なんですかね、通りかかった按摩を連れてきて……、となるわけです。

 怪談噺ではここが一番の聴かせどころです。

 

 この後深見家は改易となってしまうのですが、そこに至る話が、桂歌丸さんは少し円朝版からはアレンジをされているよう。

 奥方を斬り殺した後にご乱心、隣家へ切り込んでそのまま返り討ちに遭う、と語ってらっしゃいます。こちらの方が、今となってはしっくりくるものかもしれません。

 

 これで宗悦の呪いは成就ました。本当に?

 まだまだ怪異なお話が続きます。

 

 次は、逐電をした深見新五郎のお話となります。

 

「真景 累ヶ淵」を読む  壱・宗悦殺し

主な登場人物
  • 皆川宗悦    : 鍼医者。副業で高利貸。
  • 志賀      : 皆川宗悦の長女。
  • 園       : 同 次女。
  • 深見新左衛門  : 小普請組の旗本。
  • 新左衛門の奥方 : 深見新左衛門の妻。
  • 三右衛門    : 深見家の下男。

 

あらすじ

 十二月二十日、宗悦は深見新左衛門艇に、元本合わせて金三十両の取り立てに行く。深見は小普請組、さほど裕福ではないうえ酒浸り。この日も酔って宗悦を迎える。

 借りたものは返せ、無い袖は振れぬの口論となり、深見は宗悦を脅すつもりで刀に手を掛け峰打ちに。したつもりが酔っているために左肩からざっくりと斬り殺してしまう。

 宗悦の叫び声を聞いてやってきた奥方は、血に塗れ倒れている宗悦を見つけて深見を問い質す。正気に戻った深見は、事の次第に気付く。

 始末に困った深見は、宗悦の死体を油紙に包み葛篭に入れ、下男の三右衛門に金を与えて、葛篭をどこぞ人気のないところへ捨ててそのまま故郷へ帰れと言い渡す。三右衛門は臆病ゆえに、秋葉ノ原辺りに葛篭を置いて、そのまま故郷の下総国に帰ってしまう。

 秋葉ノ原の長屋連中がこの葛篭を見つけ、ひと悶着あって、中から宗悦の死体を見つける。死体は宗悦の娘、志賀と園に引き渡され、弔われた。

 

 

解説というか雑談

 按摩で金貸しの宗悦が、深見新左衛門に斬り殺される。これが、これから始まる怨念・因縁・業の連鎖の始まりです。ある意味、「たった三十両」の諍いが招いた災禍です。

 そして上で名を挙げた人たちは、この先もお話に関わってくるので、ご油断を為されませぬように。

 

 次回から、怪談めいて参ります。

 それでは。

 

 

 

 

サンショクスミレ

 うん、イメージしていた味とは違う。しょうゆ味のキリッと引き締まったチャーハンを作る予定だったんだが、気がついた時にはウスターソースをかけ回していた。

 明らかに失敗なんだが、まあ不味くはない、不味くはないんだ。期待しているものと違うだけだ。

 

 でも、勝ち負けでいうと気分的に僅差で負けだな。

 

 なんだかよくわからない敗北感を抱えて食事を終え、部屋を見渡す。まだ三分の二くらい、詰め終えていない荷物がある。ため息をひとつ。

 

 気分転換でもしようと、表へ出て、向かいの駐車場から自分の住んでいるアパートメントを見上げる。見上げる、と言っても五階建てくらいなものなのだが。雲ひとつない青い空に、アイボリーの建物が眩しい。

 昭和五十年代に建築されたであろう、コンクリートの塊。同じようなアパートメントがあと二棟並んでいる。

 このアパートメントで、最も気に入っているところが、外階段の造形だ。コンクリートの重厚で力強い、斜めに走る繰り返しの造形。それがまた奥へ三棟分。なあ、外階段の繰り返す構造って、かっこいいと思わないか?そうだよ、おれはこの眺めが気に入って、ここへ越してきたんだ。

 

 だが、だがしかし、如何せん建物の老朽化が進んでいる。しかも先ごろ再開発区域にも指定されてしまった。

 まあそんな訳で、名残惜しいが引越しをしなければならない。だが、荷造りは遅々として進んでいないのだ。元々片付けが苦手だ、っていうのもあるのだろうけれども、やはりここを去るのが嫌なんだろうな。心が、身体が拒否をしているんだ。

 

 とは言え引越しの日程は決まっている。片付けてしまわなければ。

 愛すべき重厚なる外階段へ向けて歩き始めると、不意に目の前に虹が現れた。と思った次の瞬間には膝下あたりからびしょ濡れになる。

「あらごめんなさい、気をつけてたんですけどね」

 一階に住むお婆さんがすまなそうに、と言いたいところだが、あまりすまないという感情もこもっていないお詫びをいただく。

 舌打ちを我慢できただけ、俺を褒めて欲しい。目も合わさずに階段へ向かう。そのとき、階段下にある鉢植えが目に入った。鉢植えというか黒いビニール製のポットが並んだいるだけ。あのお婆さんが育てているものだろう。

 サンショクスミレの花が並んでいる。お婆さんの打ち水が水滴となって瑞々しい紫が映える。パキッとした紫の中、ただ一輪だけ、白い花がふんわりと咲いていた。

 

 そのただ一輪で、全てを許せるかもしれないな、と思った。

 

 でもきっと、今のこの時だけだろう。