スタンピード

 八月の、とある日。

 日は燦々と真上から降り注いで影を減らせしめ、アスファルトは陽炎を立ち昇らせる、そんな日。

 

 品川駅港南口を、十数頭の牛たちが駆け抜けた。

 

 インターシティ側から港南口の駅前ロータリーを右に折れ、旧海岸通りへと向かって、一群の黒い巨体が土埃を巻き上げて疾走した。

 通りがかるものはいったい何が起きているのか理解できず、ただただ、暴走するその群れを目で追うより他はなかった。そして、それがこちらに向かってこなかったことに気付き、安堵し、冷や汗やはたまた違ったものが体を伝った。

 

 港南口の一角、オフィスビルに囲まれるようにして、食肉市場がある。正確には、後から生えてきたオフィスビルが、元から居た食肉市場を囲んだ。

 この辺りを平日の日中に通りかかった者なら、見たことがあるかもしれない。荷台に幾頭もの牛を積んだトラックが旧海岸通りを行き交うのを。荷台に積まれた牛たちの、行く末を悟ったような諦念や悟りを湛えたような目を。

 塀の外から中を伺ったときに、背割りにされた、いわゆる枝肉が吊るされているの目に入ったことがあった。人は一体、牛を「牛肉」だと認識するのはどの段階からだろうと、余計なことを考えてみるにはいい機会だった。

 

 その日、何かの拍子でトラックの荷台の枷が外れた。一頭の牛が自分を取り戻し、自らの運命を思い出し、恐慌を来した。そしてそれは、トラックの中の牛たちに伝播する。次に控えたトラック、その次のトラックと、恐慌は連鎖してもう誰にも手を出せる状況ではなくなった。

 一頭、また一頭と、そして全ての牛たちが、不可逆であったはずの自らの運命とも言えるトラック搬入路を逆走していった。

 

 スタンピード、暴走。

 

 集団で疾走する牛の集団を前に、道行く車は事態を飲み込めず、ある者はその場で強くブレーキを踏み、またある者はブレーキが間に合わず前の車に衝突し、またある車は華麗なるハンドル捌きを見せようとしたのかコントロールを失いガードレールに飛び込んで行った。

 品川港南口は、一時的に混乱の中に在った。

 彼らはただ一時だが、品川を蹂躙した。

 そのひととき、人間たちを支配したのだ。

 

 熱狂は永続しない。

 暴走に疲れた牛が一頭、また一頭と歩を休め、あるものは道の真ん中に座り込み、またあるものは道端の草を食み始めた。

 

 勢いは一気に衰えて、自然に消滅していった。

 

 牛たちは暴れることもなく食肉市場の職員に捕らえられ、自らの運命を再び歩んでいった。

 

 牛達の暴動は、今日明日くらいは人々の話題に上るだろう。だがすぐに忘れ去られる。そんなことがあった、という事すら忘れ去られる。

 そして何もなかったかのように人々が行き交う。

 

 ただそれだけの話だ。

 

 

品川