サンショクスミレ

 うん、イメージしていた味とは違う。しょうゆ味のキリッと引き締まったチャーハンを作る予定だったんだが、気がついた時にはウスターソースをかけ回していた。

 明らかに失敗なんだが、まあ不味くはない、不味くはないんだ。期待しているものと違うだけだ。

 

 でも、勝ち負けでいうと気分的に僅差で負けだな。

 

 なんだかよくわからない敗北感を抱えて食事を終え、部屋を見渡す。まだ三分の二くらい、詰め終えていない荷物がある。ため息をひとつ。

 

 気分転換でもしようと、表へ出て、向かいの駐車場から自分の住んでいるアパートメントを見上げる。見上げる、と言っても五階建てくらいなものなのだが。雲ひとつない青い空に、アイボリーの建物が眩しい。

 昭和五十年代に建築されたであろう、コンクリートの塊。同じようなアパートメントがあと二棟並んでいる。

 このアパートメントで、最も気に入っているところが、外階段の造形だ。コンクリートの重厚で力強い、斜めに走る繰り返しの造形。それがまた奥へ三棟分。なあ、外階段の繰り返す構造って、かっこいいと思わないか?そうだよ、おれはこの眺めが気に入って、ここへ越してきたんだ。

 

 だが、だがしかし、如何せん建物の老朽化が進んでいる。しかも先ごろ再開発区域にも指定されてしまった。

 まあそんな訳で、名残惜しいが引越しをしなければならない。だが、荷造りは遅々として進んでいないのだ。元々片付けが苦手だ、っていうのもあるのだろうけれども、やはりここを去るのが嫌なんだろうな。心が、身体が拒否をしているんだ。

 

 とは言え引越しの日程は決まっている。片付けてしまわなければ。

 愛すべき重厚なる外階段へ向けて歩き始めると、不意に目の前に虹が現れた。と思った次の瞬間には膝下あたりからびしょ濡れになる。

「あらごめんなさい、気をつけてたんですけどね」

 一階に住むお婆さんがすまなそうに、と言いたいところだが、あまりすまないという感情もこもっていないお詫びをいただく。

 舌打ちを我慢できただけ、俺を褒めて欲しい。目も合わさずに階段へ向かう。そのとき、階段下にある鉢植えが目に入った。鉢植えというか黒いビニール製のポットが並んだいるだけ。あのお婆さんが育てているものだろう。

 サンショクスミレの花が並んでいる。お婆さんの打ち水が水滴となって瑞々しい紫が映える。パキッとした紫の中、ただ一輪だけ、白い花がふんわりと咲いていた。

 

 そのただ一輪で、全てを許せるかもしれないな、と思った。

 

 でもきっと、今のこの時だけだろう。