「僕たちの思い」

はじめに

 


 僕は幸せだったのだと思う。父さんの顔はよく知らないが、母さんや周りの人たちは僕の誕生をとても喜んでくれた。

 僕が生まれたところは、緑の豊かなところだった。家の目の前にある緑の草原で、僕は夢中になって遊んだ。夜になれば母さんの胸のなか、うずくまるようにして眠った。

 悲しいことなんて何一つなかった。

 ある日、母さんがいなくなった。僕にはなにも告げずに。
 もうそのときの記憶はあまり無い。あとから聞いたら、一通り泣いて、泣き疲れて、うずくまって眠ってしまったらしい。

 ただ、周りの人たちはあまり母さんがいなくなったことを、深く心配してはいなかったことを覚えている。そのことに、僕はとても憤って、誰かが声を掛けても、ぷいと横を向いて他所へ行ってしまうようにした。時間が来るまで、草原に立っていた。
 それでも不思議なことに、周りの人たちはとても親切にしてくれた。とても栄養のあるご飯と、毎日のブラッシング。くすぐったいがとても気分がよかった。
 そのうち、母さんがいなくなった悲しみは次第に薄れてきた。もちろん、母さんを忘れたことはない。

 ある日僕は周りの人に連れられて、車に乗せられた。みんな、少し神妙な顔をしていたけれど、母さんの時のように、やはりあまり心配そうではなかった。

 車は、僕の家を後にして走っていった。

 そして、昔、周りの人たちが口々に話していたことを思い出した。

『こいつは肉質が良さそうだからなぁ』
『ああ、母牛の方もなかなか評価高かったからなぁ』
『出荷まで、あと一月くらいだべ?』
『高い値がつくといいなぁ』

 そう、母さんは売られたんだ。そして僕も。
 母さんは牛肉として売られた。そして僕も。

 目の前に、食肉市場が見えてきた。そうだ、そこで僕は人々に食べられる肉となる。


 いま、きっと僕はあなたたちの目の前に並んでいるはずです。ロース肉やカルビとなって。ひょっとしたら僕のタンやハラミ、レバーやミノ、シマチョウなんかも並んでいるかもしれない。そしてスープの中には、僕のテールがあるはずです。

 僕は、いろいろな思いを胸に、あなたたちの前にいます。
 だからお願いです、美味しく、美味しく食べてください。

 それが僕の願いです。

 

焼肉 叙情苑

 


 

「……いや、メニューの前にこんなの書いてあったらさすがに食べづらいわ!」