「ええ、このところね、陽気もずいぶんとあったかくなってね。こんな時はね、ちょっと一杯ひっかけていきたくなりますね、ええ、ええ。一杯ひっかけるったってね、威勢のいい旦那の煮売屋なんかはいけませんよ、もっとこうね、色っぽい年増のお店でね。ワイワイやるのもいけません、そう、板海苔の一寸炙って青くなってね、そんなところをつまみにね、一人静かにやるわけですよ。そろそろぬる燗の良い季節になりましたねぇなんて言おうものならね、おかみさんが、ああこの人は季節のわかる粋なお方だなんて思われてですね、ふきのとうのいいのが入りましたけど、お上がりになりますか、なんて言ってきますよ、それじゃあふき味噌のちょいと炙ったのと天ぷらをいただきましょうかね、ああ、たくさんは要りません一つで結構ですよなんて言うとですよ、まあなんて乙な方なのかしら、なんて思ってくれるってもんですよ、ねぇ。
 ここでデレっとしてちゃいけませんよ、そんなもんはおくびにも出しちゃいけません、ああ、おかみさんの人生にもいろいろあったんでしょうねぇ、なんてことを口にも出さずに目で訴えるんですよ、そしたらね、まあさっきからなんですかこっちばかり見つめて、なんていたずらっ子をたしなめるような口調でね、ちょうど春先の眼病みであたしの目もうるんでますよ、あらいやだ、なんて言って天ぷら鍋のほうに目を落としてね、頬をちょっと染めたりなんかして、まあ、油の熱にあてられたのかしら、なんて言い訳なんかしてね。
 そうこうしてるとふき味噌が焼きあがってきますよ。焼けたみその香ばしさとふきのとうの香りが口の中に広がりましてね、そいつをぬる燗で、名残を惜しむようにちびりちびりと流し込んでいくんですよ、気が付けばチロリも空になっててね、もうひとついかが、なんていうからそれじゃ人肌でお願いしますよって返しますよ、で盃に残ったもう冷えちまっているのをグイっと干してね、あら男らしいところもあるのね、なんてところを見せつけますよ。
 人肌燗と一緒にね、ふきのとうの天ぷらが運ばれてきますよ、ああ、しょう油なんていけません、塩もなくていいですな、アツアツの所を、こう、サクッとね。ほろ苦さが春の訪れを感じさせてくれますよ、これはお酒も進むってもんです。ほら、一個だけ頼んでちょうどいいでしょう、こういうのはね物足りないなってくらいがいいんです、三つも四つも頼むのは野暮ってもんですよ
 それで、ここ、この頃合いですよ、おかみも一つどうだい、って声を掛けてね、それじゃあ一杯だけいただこうかしら、なんて。これ以上言葉は要りませんよ、お互い目と目だけでねお互い一寸目を潤ませたりなんかしてね。そうするとそこに表からバタバタっと音がして、ほら春雨ですよじゃあそろそろ帰りますか、なんてぇと、この傘をお持ちになってって店の傘を差しだしますよ、手渡すときにそっと触れる指と指、おかみのことをじっと見つめてね、それじゃあ、傘を返しにまたここに寄らないといけませんね、なんて言うと、ええ、またいつでもいらして、なんてうるんだ目で見つめられるのを背に受けて、雨の中ひとりあったかい気持ちを持って帰っていくわけですよ。

 ねぇ、粋っていうのはこういうことを言うんですよ、お前さんなんかはこんなお酒の呑み方したこたぁないでしょう。……まあ、あたしもないけどね」

渇望

 その日、若者と俺は首都高速羽田入り口の近くのコンビニにいた。暖かい缶コーヒーを互いに一本づつ。その熱でかじかんだ指に再び血が通う。それを飲み干したらスタートだ。
 キーを捻りセルボタンを押すと、スターターが悲鳴のような音を上げる。ワンテンポ遅れて爆発的な音を立ててエンジンが息を吹き返す。若者も同じように臨戦態勢をとる。
 ウサギとカメだ、先に出ていいぞウサギさん。シフトペダルを一つ踏み込むと、若者のバイクは力強く地面を蹴り出し、エンジンは高回転をキープして走り出していく。間髪を置かずに、老兵と呼ぶに相応しい俺のバイクが滑り出していく。エンジンの回転に引っ張られるように、甲高い音を響かせて加速をする。

 

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 そのバイクを譲ってほしい、という若者が俺の元に来た。
 若者は、分不相応な金額を言ってきた。そういうことじゃない、カネの問題じゃないと言って、取り付く島もなく追い返した。
 次に彼はバイクを交換しよう、と持ち掛けてきた。自分のバイクはそれなりに金をかけていじっている、悪い話じゃないはずだ、貴方の乗ってるそのバイクには相応しいと思いますよ。それに、僕の方がこれをうまく乗りこなせます。
 俺は条件を出した。お前の話に乗っても構わないが、前にも言った通りカネの問題じゃない、今から三日後、ちょっとした賭けをしよう。羽田から東関道の潮来まで、俺より先に着いたら譲ってやる。百㎞ちょっとだ、ちょうどいいだろう。乗るかい、”若造”。

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 羽田入口から短い合流を経て高速に上がると、羽田西トンネルを抜けるまでは小さなカーブが続く。自動車の量もそれなりに出ている。それらを右へ左へと躱していく。先を行く若者も同じように、車たちの流れを遮ることなく進んでいく。乗れている。サーカス騎兵団とでも呼んでみるかい、と、心の中で嘯く。
 首都高速一号線から首都高湾岸線へ入ると道幅は広く、緩やかなカーブとなる。ギアを一段落とし、アクセルを開け老兵に活を入れる。上がっていくスピードに視界が狭まる。前を走る車が、普段ではあり得ない相対速度で近づいてくる。受ける風圧が体力を奪い、張り詰めた精神を削っていく。

 

 回せ、回せ。そんなことでは先を行く若者に追い付けやしないぞ。排気量ではこっちが僅かに上だ、追いつきたいだけの理由があるんだろう? 回せ、もっと俺を躍らせろ。

 

 江戸川を越え、大きく左へ下る道を駆け降りる。そこからは暫く、長い直線が続く。右手を絞るようにしてアクセルを開けていく。クランクシャフトの回転に乗って、引っ張られるように速度を増し、未だ前を走る若者を追いかけていく。奴は乗れている、なかなか射程距離に入りやしない。

 

 まだだ、まだ行けるだろう? お前の欲しいものは目の前にあるぞ。俺が手伝ってやる。回せ、回せ。もっと、もっとだ。

 

 市川料金所の小さなコーナーを抜けるとき、若者が少しだけもたついた。好機。シフトを一つ、いや二つ落とす。強烈な悲鳴を伴って、エンジンの回転数が上がる。と同時に暴力的なまでのエンジンブレーキリアタイヤを暴れさせ、その見返りとして背中を蹴飛ばされるような加速を得る。若者の背が、すぐそこまで迫る。

 

 そうだ、あと少し、手を伸ばせば届く場所にお前の欲しいものがあるぞ。
 そう、お前の欲しいもの。”若さ”だ。求めても手に入れられないもの、打ち負かして留飲を下げるくらいだろうが、な。それでもないよりはマシだろう。
 今のお前なら悪魔とでも契約できるだろうさ。さあ、回せ。俺をもっと躍らせろ。

 

 そのまま湾岸幕張の料金所を抜けたあたりで、俺は若者の前に出ることができた。いや、前を譲られたのかもしれない。宮野木ジャンクションを前にして車の量が増え、前がつかえてくる。思うように前へ進めない。背後に若者の気配、圧力を感じる。苛立ちが募る。ジャンクションに入り、分岐合流に神経を削られる。分が悪い、舌打ちを一つ、打つ。前へ押し出されたこの状況が許せない。誰を? 何を許せないんだ?
 余計な考えが頭をよぎると同時に、若者の影が右側から俺を置き去りにする。下手を打った。あいつは俺の後ろから冷静に状況を観察していた。本来ならそれは俺の領分だ。無駄に熱くなるのは若者の特権じゃなかったのか。頭を冷やせ、追い詰めろ。

 

 ハッ、熱くなるのは俺のエンジンだけで十分だ。お前は俺を躍らせるだけでいいんだよ。さあ開けろ、回せ、駆けさせろ。俺はいつだって準備できてるんだぜ。

 

 酒々井インターチェンジあたりでようやく若者の背を再び射程圏内に捉える。ここまでも決して多くない車の量がより少なくなる。自問する。俺は冷静か? よし、契約してやる。吼えろ、踊れ。誰よりも、何よりも、だ。嫉妬と渇望の叫びを上げろ!
 冨里、成田、大栄。佐原までで追い詰めてやる。狭まった視界は若者の背だけを捉える。

 

 そうだ、それでいい。いくらでも吼えてやる。何度でも踊ってやる。お前はアクセルを開ける、冷静に追い詰めろ。

 

「そうだ、望むものは目の前だ。手を伸ばせ」

 

なんでもない一日

「はい、起きて。私これからお仕事」
 この部屋のあるじ、ミイホァが俺をベッドから追い出す。仕方ないなぁと呟き、のっそりと部屋から出ていく。階段へ向かう途中で、恰幅のいい外人(俺は外人じゃないのか? 外人の定義ってなんだ?)と、目も合わせずにすれ違う。店の前で客引きをしている娘たちをからかいながら表通りへ。少し歩いたところにある茶屋へと向かう。
 ミイホァとは一週間の契約をしたはずなんだがなぁ。夜だけなんだろうなぁまぁいいか。じりじりと焼け付く日差しにやられ、まともな思考ができなくなっている。まともだったら、ホテルを引き払って置屋で居残りを決め込む、なんて発想は出てこない。

 

 茶屋でアイスコーヒーを頼む。ここに座っていれば、置屋の入り口がよく見える。さっきの白人が出てきてからのんびり戻ればいい。アルミ製のコーヒーフィルターを乗せた小さなグラスと、砕いた氷で満たされたグラスが運ばれてくる。小さなグラスの底には、練乳が阿呆ほど溜まっている。
 置屋の向かいも、ガレージに小さなテーブルと椅子を並べただけの茶屋となっている奥へ行くとこれまた置屋だ。こちらの茶屋には、同胞の皆々様が屯をしている。言葉が通じないからと、買った娘を大声で評しては、これまた大きな、下卑た笑い声をあげている。彼らは苦手だ、そもそも口も聞いたことはない。とは思うものの、傍から見れば私も彼らもやってることに大して変わりはない。

 

 小さなグラスに程よくコーヒーが溜まる。よくかき混ぜて氷の入ったグラスへ注ぎ、一口。頭をぶん殴られるような激甘のコーヒーが呆けた頭を少しだけはっきりとさせてくれる。と同時に、いまミィホァの部屋で行われていることを考えると、もやもやと遣る瀬ない気持ちがわいてくる。
 こんな場面で読むにはどんな本が合うだろうか、などと考える。聖書でも読んでみるか? まさか。他愛もない、あとに何も残らないような話がいい。生憎持ち合わせてはいないが。俺の人生でもなぞってみるか?

 

 小一時間ほどして、件の外人が店から出てくる。アイスコーヒーをもう一杯、ゆっくりと喫してから店に戻っていく。昼を回ってなお強い日差しが吸い込まれるほどの黒い影を落とす。その影を連れて大通りを歩いていく。ガレージ前の茶屋にいる面子が、こちらをじろりと睨む。本音を言えば、こいつら全員にバケツで水でもぶっかけてやりたい気分だ。

 

 部屋に戻ると、ミィホァがベッドに寝そべって、雑誌を読んでいた。ついさっきまでこの部屋で行われていたコトを考えていたら、自然と笑いが漏れる。
「何がオカシイ?」
 ミィホァがこちらを向いて、ご挨拶のキスをしてきた。ついさっきまで男に奉仕をしていた口、だがそれがどうした。俺はそこまで潔癖症ではない。それに彼女が彼女であることが尊いのではないか。
 ミィホァの隣に寝そべり、この後のお仕事を尋ねる。
「ママさんに呼ばれたら行くけど、行かない方がいい?」
 答える代わりに、彼女を緩く抱きしめる。

 

 こうして、なんでもない一日が過ぎていく。
 

オーダー

 四つ目の十字路を右へ折れてすぐに、その喫茶店はある。朝のひと時をゆっくりと過ごすとき、またじっくりと思索にふけるときなどに使わせてもらっている。
 少し渋くなっているドアを押し開けると、からんころんと決して涼やかとは言えない音が俺を店に招き入れ、マスターはじろりと入り口を見る。いつもの儀式だ。そして俺はお気に入りである右奥の席に陣取る。
 マスターが水とおしぼりを持ってやってくる。俺の注文は決まっているのだ。
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「マスター、いつもの」
「……、え?」
「だから、いつものやつちょうだい」
「いつもの? え? 何?」
「なんだよマスター、いつものだよ、い・つ・も・の」
「だから、何?」
「だからいつもの、って言ってんじゃないかよ! いつものアレだよ」

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 こいつもしつこいな。いつもの、なんて言われたって分かるわけないだろうよ。来るたび来るたび違うメニュー頼んでおいて、何が『いつもの』、だ。あんまりしつこいとパップラドンカルメでオーダー通すぞ、そんなもの置いてないけど。
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「だからご注文は?」
「いつもの!」
「いつものって、何ですか?」
「いつものはいつもの、だよ!」
「ああもう、いつのいつものですか!」
「いつものいつもの、だよ!」

 ……そして不毛な言い合いが続いたのだった。

たべる

 僕らはすべてが真っ白な部屋に通され、そして少し離れて向かい合わせに座った。
 僕の前には、よく熟したイチジクが、彼女の前には大きなサイズの、茹でたホワイトアスパラガス運ばれてきた。

 

 僕はイチジクを二つに裂いて、しゃぶりついた。柔らかな甘みと溢れる果汁が僕の喉を潤す。僕はただ、イチジクを食べるという行為に高揚をしていた。

 

 彼女はよく茹でて柔らかくなったホワイトアスパラガスを手に取り、穂先から口に含んだ。咀嚼する必要もないほど柔らかくなったそれを、おそらくは舌の付け根ですりつぶし食道へと送り込む。その度に喉がなまめかしく動くのが見えた。そして次第に頬が紅潮していったのだ。

 

 僕は彼女を見つめ、彼女は僕を上目遣いに見上げた。互いに笑みは必要なかった。

惑星なのか?

「この最下層は、どうなっているのですか?」
 航宙ハブステーション”ソードフィッシュ”から、この惑星の陸地、と呼んでいいものかどうか、を見下ろして、案内をしてくれている管制官に尋ねた。
 眼下の景色は、高層建築が隙間なくびっしりと林立し、それぞれが成層圏まで届くか、というほどの高さを誇っている。およそ上層階は連絡チューブで結ばれ、人々は中空で生活をしているといっても過言ではない。
「最下層ともなると、日の光も届かないでしょう。どのように暮らしているのですか?」
 私は重ねて管制官に尋ねた。
「私たちもわからないのです。一番下まで降りたことがないので」
 管制官はすまなそうに答える。
「最下層まで向かう術がすでに失われています。何人かの勇気ある冒険者が下って行った、という話は聞くのですが、中途で引き返すか行方不明になるかのどちらかです」
 そもそも、と管制官は続けた。
「最下層まで行って、本当に地面があるのか、も怪しいと思うんですよ。ただ建築物がびっしりと生えているだけで。ここは本当に惑星なんですかね?」

 

 

 

四月になれば彼女は

 四月。
 春の匂いを纏って、彼女はやって来た。
 こんにちは、こんにちは。ご機嫌はいかが? そう尋ねる彼女に戸惑いながらも、その妖しげな魅力に僕は少しづつ魅かれていった。気が付けば僕は彼女に恋をしていた。

 

 五月。
 僕らは一緒に住むことになった。
 気付けば、僕の恋は愛に変わり、彼女もそれを受け入れてくれた。小さな窓から見える新緑が、彼女と僕に安らぎを与えてくれた。

 

 六月。
 僕らは二人でいることに慣れてしまった。
 ちょっとだけ、ちょっとだけ僕らの間はぎくしゃくとして、小さな棘のように胸を刺した。
 梅雨時の青葉と水の匂いが、僕らの間の小さな溝を流れて行った。

 

 七月。
 彼女が不意に聞いてきた。
 ”ひとは空を飛べると思う?”
 僕は彼女を縛ろうとしていた。でもきっと、彼女は蝶なのだ。ひらひらと飛び回るのが似合っている。夏の日差しを受けて飛び回るのがいい、逆光の中、僕はそれを見つめるだけだ。

 

 八月。
 彼女は突然いなくなった。
 交通事故だった。突然の夕立の中、雨に打たれてなお熱を帯びたアスファルトに彼女は横たわった。病院で見る彼女の顔にあの微笑はもうなかった。そしてこれからも。

 

 九月。
 一人にはちょっとだけ広い部屋で、彼女のことを思い出す。
 彼女の微笑だけが思い出に浮かぶ。僕は笑みを浮かべる。
 しかし秋を運ぶ風が吹き始める中、突然に彼女の思い出が途切れるとき、僕は涙を流すだけだった。

 


Inspired by "April Come She Will" Paul Simon