残酷な実学
熱帯雨林を思わせる森の中。道に迷った男が老杉にもたれかかり座っていた。
男の目の前には、一本の胡瓜。疲労困憊、空腹ではあるが、男は悩んでいた。
先刻、何かが男に囁いた。
”わたしは、さいきん、ゴウ、という、ことば、を、おぼえた”
”ごう、ッテ、ドウイウ、モノナノカ、シリタイ”
”だから君たち二人を選んだ”
そう、もとは二人いたのだ。突然に方位磁石が狂い、道を失った。辿り着いたのがこの老杉の前だった。何かが囁いた後、もう一人の男の姿は消え、その場に胡瓜が一つ、残された。
”食べたまえ。喉は乾き、腹もすいているだろう?”
「……、あ、あいつを、何所へやった!」
男は分かっているのだ、もう一人がどうなったのかを。自分自身が試されていることを。その考えが間違いであってほしい、あるいはそんな考え自体を打ち消したくて、ただ叫んだ。
答はこれと言ってなかった。ただ一言。
”たべないと、シヌヨ”
どれくらいの間だろうか、男は悩んだ。
連れだった奴は、小学校からの親友で、趣味が同じ山登りだった。パートナーとして幾つもの山を制覇してきた。かけがえのない親友だ。見捨てられるわけがない。何とかしないと。
不意に、男の心にある映像が流れ込んできた。
結婚間もない妻、生まれたばかりの子供。彼にとって大事な人たち。
また、囁く声。
”コノきこうダト、ソロソロくさるよ”
”あいつニハ、守るヒトが、イナイダロウ?”
男は泣いた。声を上げ、最後の力を振り絞り、いつまでも泣いた。
翌日、男は一人、麓の村へと戻っていた。務めて普通に振舞っているが、顔に生気はなかった。不思議なことに、もう一人の男のことなど、誰も話題にもしなかった。まるでそんな人間などいなかったかのようだ。
老杉の中、あってはならないものがその洞の中に座っている。
すでに目は開き、精悍な顔つきとなりつつある。
あってはならないもの、中空を見据えて咆哮を上げる。
その声は奇矯なる笑い声にも似て。
了
お題:「業」「磁石」「キュウリ」