あの日

 あの日。
 そうだ、財布を忘れて家を出てしまって、いつも乗る電車に間に合わなかったんだ。一本後でも始業までには楽勝で着けるようにはしているから問題はないんだけど、常に乗っているのとは違う電車、というのはどこか居心地が悪い。まあそれもK駅までだ。そこで乗り換えればまたちょっと気分も違うさ。

 

 あの日。
 どうしても早くに片づけてしまいたい作業があったので、いつもより早めに家を出た。2本早い急行に乗る。2本早いだけなのだが、こうも混み具合が違うものか、と驚く。これだったら、毎日この時間でもいいか。とにかく、混雑した車内は、無駄に体力をそぎ落としに来る。それがたまらなく鬱陶しいのだ。間もなく、N駅に着く。乗り換えだ。

 

 あの日。
 K駅で地下鉄に乗り換える。この駅始発の列車があるので、運が良ければ座れる。いつもより2本後、かな。車両の真ん中のほうになったけど、何とか座ることもできた。H駅までひと寝入りできるかな。

 

 あの日。
 N駅で地下鉄に乗り換える。銀色の車体が日に当たりすこし眩しい。H駅までそこそこの距離があるので、一通り作業の内容でも頭の中で整理しておこう。

 

 あの日。
 列車はI駅で足止めを食ったまま、動く気配もない。何か事故があったらしいが、詳しいことはわからない。何とか遅れるとだけでも連絡を入れたいのだけれど。最悪、最寄りのJR駅まで移動するしか。

 

 あの日。
 H駅を降りて、事務所に向かう。春というにはまだ幾分か涼しい。だが事務所までの10数分、歩くには心地いい陽気だ。
 事務所に着いたら、いつも朝早い事務の子が涙目で飛びついてきた。……な、何事だ?

 

 あの日。
 JRのU駅へ何とか移動をした。そのあたりで、状況をなんとなくだけど理解した。いや嘘だ。理解なんかできていなかった。そんな馬鹿なことが現実に起こるなんて。

 

 あの日。
 事務の子から、大丈夫だったんですか、なんともないですか、と何度も聞かれた。早く来たのがそんなに意外だったんだろうか、それにしても涙目になることはないだろうに。と、奥の応接室にあるテレビから音が漏れ聞こえている。どうやら都心の地下鉄が運転見合わせになっているらしい、それもかなり大規模に。私が乗ってきた、あの、銀色の地下鉄もご多分に漏れず止まっているようだが、なんだ、この映像は。本当にこれは日本で起きているのか。

 


 あの日。

 あの日。

 

 地下鉄線内を、絶望が駆け抜けた。
 1995年、3月20日。
 地下鉄サリン事件



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