十字架の上で訴えたものは - 主はイエスを見捨てたもうたか -
エリ・エリ・ラマ・サバクタニ。
主よ、主よ、どうして私を見捨てられたのですか。
ご存知かとは思いますが、これは磔刑に処されたイエス・キリストが、その十字架の上で言ったとされる言葉です(マタイ福音書、マルコ福音書)。神の子であるはずのイエスが主に対して、この恨み言のようなことを言うというところに、多くの人は人間イエスを見出し、ドラマティックなものを感じ取るのではないでしょうか。
実はちょっと違うらしいですよ。
聖書をお持ちの方は、旧約聖書の詩編第二二章を開いて。それはこんな言葉で始まります。
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
お気付きですね。同じなんですよ。イエス・キリストは、詩編第二二編を口遊んでいたんです。それは激痛を紛らわせるためなのか、最後まで意識を保つためだったのか。いずれにせよ、主への信仰は何も揺らいでいなかったんです。
ちなみにこの詩編第二二編、イエスの最後の所にかなり重要な意味を持っています。ちょっと長いですが引用を。
しかし、わたしは虫であって、人ではない。
人にそしられ、民に侮られる。
すべてわたしを見るものは、わたしをあざ笑い。
くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う。
「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ、
主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
(詩編二二:6-8)
ピラトの裁きを受けるイエスに向けられたユダヤ人同胞たちの誹りのことを表しています。
わたしの力は陶器の破片のようにかわき、
わたしの舌はあごにつく。
(詩編二二:15)
イエス・キリストの最後の言葉、”我、乾く”と符合します。
彼らは互にわたしの衣服を分け、
わたしの着物をくじ引にする。
(詩編二二:18)
兵卒たちがイエスの着衣をくじ引で分ける描写があります(ルカ福音書、ヨハネ福音書)。
イエス・キリストという者が聖者であるがゆえ、詩編二二編の言葉を成就していった、ということです。……ここまで上手くいくわけはないと思うので、話を盛ったんだと思いますけど。
人間イエスに触れられるのは、わたしとしては、エルサレム神殿での破壊行動と、ゲッセマネでの独白です。激情に駆られるイエスと、ただ一度だけ死を恐れたイエス。この二つのシーンに、神の子ではない人間としての彼を感じるのです。もっとも激情に駆られるのは、主と同じかもしれません。
なお引用は、口語訳聖書に基づきました。
あと、わたしはキリスト教の信者ではありませんの。見当違いでしたら許してね。