人間の屑の独白、或いは、無題

 人間の屑のお話。



「私を連れ出してくれませんか。お家に帰りたい」

 幾度めだっただろう、彼女を「買った」ときにベッドの上でそう言われた。彼女は隣の国から来て、ここで働いている。彼女を連れ出すということはつまり、身請けをしてくれ、とそういうことだ。
 それもいいか、と思った。他人の人生を買う、人間の屑にはピッタリだ。

 


 

 以前から噂はあった。

“とある国に、信じられない値段で若い娘が抱ける村がある”

と。

 噂は本当だった。そのとある国の首都から少し離れた場所に、その村はあった。一軒二軒の置屋ではない、村の入り口からメインストリートに沿って両側全てが置屋。見た目は一般家屋にしか見えないそれらの店の軒先に女たちが屯し、通りかかる男たちに色目を使っていた。
 そのうちの一軒に、彼女はいた。カタコトの英語で、
“うちに来て! みんないい子だよ!”
と言って私の腕にぶら下がって自分の店に連れて行こうとする。さてどうしようか、と決めあぐねていた私は、取り敢えず彼女について行くことにした。

 


 

「もし、もしですよ。彼女を身請けするとしたら幾ら払うことになりますか?」
 三度目にこの国へ来て幾日か、 置屋のオーナーに、おずおずと話を切り出した。その時、私はどこまで本気だったのだろう。

「2,500ドルだね。この子はよく働くから」
 “よく働く” の意味はあまり考えたくなかった。
「それに借金もある。そういうのを合わせて、2,500だね」

 2,500ドル。当時のレートでおよそ25万円相当か、もう少し上だったか。ひと一人の人生を買うには安すぎる。だが、その人生を左右する額の半分すら持ち合わせていない。
 お金がないと、彼女に言い訳ができる。どこか心の奥の方で安心をしていた。

 


 

 照りつける強烈な日差しと対をなすように店の中は暗く、目が慣れるまでに少しばかりの時間を必要とした。カーテンで仕切られたさらに奥の部屋へ招き入れられ、オンボロのソファに座らせられた。
「ちょっと待っててね」
 彼女はさらに奥へと。入れ違いに、四十歳ほどだろうか、恰幅の良い女性が現れた。いらっしゃい、と愛想よく挨拶をして、向かいのソファに座る。
「いま来るから待ってなさい」
 比較的流暢な英語でそう言い終える頃に、私を連れて来た彼女が奥から出て来た。その後に続いて、両手に少し余る人数の女性が、いや少女たちが私の目の前に並んで立った。

 


「2,500ドルだって。いくらなんでもそんな金額、払えないよ」

 置屋の、彼女に充てがわれた部屋で、オーナーとの話を正直に伝えた。彼女は少しがっかりした表情を浮かべ、目を潤ませた。
 残念だったね、当てが外れたんだろう? 私はどこかでそう思っていた。バカな客から金を巻き上げるチャンスだったのにな。私が2,500ドルを払って君は一週間くらい隠れて、私が帰国した頃合いにまた店に出ればいい。よくある話だろう?
 そんな思いとは裏腹に私は、もっと奥底の方から何か例えようのない感情が込み上げてくるのを感じていた。

 


「この子は最近入ったばかり、この子は上手……」
 彼女は私にじゃれつくようにして、説明を始めた。
「みんないい子、みんな18歳。誰を選ぶ? 2人でもいいんだよ」
 年増の女性がそう言って私の顔を伺った。どうやらこの店のオーナーらしい。
 みんな“18歳”だって? そんな訳あるか。もう一度少女たちを見回した。

 目が合うと顔を背ける子がいた。

 なんとか笑みを浮かべる子がいた。

 既に男を誘う術を知っている子がいた。

「ねえ、誰を選ぶ?」
 彼女はそう言って、笑顔で私を見上げた。誰を選ぶか、もう決まっている。とびきり可愛いわけではないが、底抜けに明るい子だ。

「君だ。君がいい」

 私を見上げている、私の膝の上にいる少女に、そう告げた。
 見逃してしまうほどの短い時間だが、彼女は少し戸惑った表情を浮かべた。そして満面の笑顔を見せた。

 


 

 目に涙を溜めたまま、彼女はずっとうつむいていた。長い沈黙。私は何か弁解をしようとして口を開きかけたが、その前に彼女が意を決したように私に語りかけてきた。

「わかった。でも大丈夫です。一緒に私のお家に帰りましょう」

 


 日本では考えられないような金額で、私は彼女の一晩を買った。彼女は努めて明るく振舞っていた。

 日本に帰るまでの残り二日、私は彼女と過ごすことにした。昼過ぎに彼女を迎えに行き、バイクタクシーに乗って街中を周り、決して高級ではないがちょっとだけ小綺麗な食堂で食事をして、ホテルに向かう。そして彼女は明け方に、迎えのバイクタクシーに乗って帰っていく、その繰り返し。そして私は、自分の国へと帰っていった。

 


 

 彼女は、大事なことを話す時には言葉遣いが少し丁寧になっているような気がした。

「私を一週間、買ってください。そして一緒に、隣の国の、私の故郷に旅行しましょう」

 でもそれじゃまた帰ってくることになるんじゃ?

「大丈夫です。私はそのまま家に残ります。もう戻りません」

 そんなことをして大丈夫なのか。女主人に嘘をつく、ということか。あとで君がひどい目にあったりしないのか。私は動転をし、おろおろし、訳が分からなくなっていた。

「大丈夫です。私のいう通りにやって。上手く行くから大丈夫」

 


 

  彼女はベッドに横になり、枕を抱えて、ずっとテレビを見ていた。テレビに映っていたのは隣の国、つまり彼女の国のクイズ番組。クイズ自体は他愛のない、教科書に載っているような内容のものだった。恐らくは解答者なのだろう、彼女とおよそ同い歳と思われる子たちが映っていた。
 彼女はそれを、ただじっと見つめていた。番組を見て喜ぶでもなく、かと言って悲しむでもなく、じっと見つめていた。
 番組が終わり、彼女はいつもの笑顔で私の方へ向き直り、キスをした。なにもする気は起きず、ただベッドの中で彼女を抱きしめた。

 最初、少し困ったような顔をしたのはなぜ? このタイミングで聞いたものかどうか。
「他の子を選んでほしかったから。そうすれば私はお仕事をしなくて済む」
 そうか。明るく振る舞って主人の手伝いをしているのは、彼女なりに自分を守る手段だったのか。
「私はあなたが一番気に入ったから選んだんだ。嫌だった? 」
 愚問だ。
「ううん、優しい人でよかった。ひどいことをする人もたくさんいるから」
 私のことを優しいと言ってくれるか。君を買っている時点でロクな人間ではないのに。
「他のかわいい子と違って、私にまた会いに来てくれる人なんていなかったもん。それに乱暴なことしないから。だから優しくていい人」
 そんなことで、ただそんなことだけで、私のことを“優しい”と思うのか。
 この国に来てから今までの、彼女のことを想う。ただそれだけで涙が出てきた。

「……なんで泣いてる?」
 私の顔を不思議そうに覗き込む彼女を愛おしく思った。

 だがきっとそれは一時の気の迷いだ。

 


 

 翌朝。戻る彼女に付いて、置屋へと向かった。女主人と対峙し、彼女の描く通りのことを切り出した。昨日の今日だ、怪しまれてもおかしくはない。じっとりとした汗が毛穴という毛穴から吹き出したのは、高温多湿のせいだけではない。

 女主人は二つ返事で快諾した。こちらが拍子抜けをするほどに。
 七日間で350ドル。彼女は今日の夜ここを出るから、明日からにしておきましょうと、女主人はにこやかに言った。

 


 

 彼女に聞いた。
「もし帰ることができたら、何をしたい?」
「学校に行きたい。勉強が好きだったんです」
 そう言って荷物の中から通知表を出して私に見せた。“1”がたくさん並んだ通知表。それが最高評価なんだろう。

 その“1”が、ある日を境にぷっつりと途切れる。

「帰りたい……」
 そう言って、目に涙を溜めた。それはやがて彼女の頬を伝い、私の胸を少し濡らした。
 彼女を買い、彼女を抱き、果てた気怠さの中、彼女は私に向き直り、こう言った。
「私を連れ出してくれませんか。お家に帰りたい」

 


 

「ね? うまく行ったでしょう?」
 彼女の部屋で、ポカンとした私に向かって彼女は楽しそうに言った。
「もう借金はそんなに無いの。今度ので終わり。あの人は悪い人」
 ぺろりと舌を出して、悪戯っぽく笑う。そうか、吹っかけられたのか私は。


 ここから先は、おおよそ女主人の言った通りだ。今日の夜、彼女は故郷に帰る。私は翌日ビザの発給を受けて、明後日の朝に彼女の故郷の近くにある、比較的大きな街へ向かう。到着は、運がよければ夕方頃になる予定だ。

 ビザは何事もなく発給された。ついでに、隣国までのツアーの予約手続きを済ませた。ツアーと言っても、隣国へ抜けるバックパッカー向けの片道ツアーだ。色々とオプションを勧められたが、丁重にお断りをした。

 翌日は隣国へ向けて出発しようというその日の午後、私はあの女主人の置屋にいた。ただ一夜の相手を探しに。

 言っただろう、こんな遠い国まで女を買いに来る奴に、まともなのがいるわけが無い。屑はどん詰まりに吹き溜まるものだ。そして行き場を失った風に浮かれて舞い上がるものだ。

 髪の長い少女が私の脇に座り、手を添えた。ギクシャクとした、僅かな微笑みを浮かべて。

 この子にとっては精一杯のアピールなんだろう。もちろんお仕事として、だ。

 翌日に向けて、やるべきことはやった。最後の“遊び”だ。そんな身勝手な開放感から、少女をホテルへ連れていった。

 あまり表情の無い少女だった。

 シャワーを浴びて帰るまでの間、少女はベッドの端に座り、私に話しかけてきた。

「あの子と一緒に、あの子の故郷に行くんでしょう? あの子はお家に帰るんでしょう?」

 ああそうだね、と気の無い返事をした。

「私ね、あの子と同じ町から来たの。あの子は帰れるんだ」

 少女はただじっと私を見つめた。あの時の彼女と同じだ。じっとテレビを見つめていた、喜びや悲しみではない、ただまっすぐと見つめるあの表情。諦念、なのかもしれない。

 少女はこれからもここに残る、お仕事のために。

 深夜、一台のバイクが少女を迎えに来た。少女は振り向きもせず、帰っていった。

 

 陸路で隣国最大の都市を目指すツアーには二十人弱のバックパッカーたちが集まり、ゲストハウス兼ツアーフロントに横付けされた大型バスに乗り込むのを待っていた。
その傍ら、川を下って国境越えをするのは私を含め僅か三組。大型バスが走り去ったあと、その影に隠れていたオンボロのワゴンに私たちは詰め込まれた。
 このまま途中にある大河まで行き、そこから先は水路となる。


 早瀬などあろう筈もないこの大河を、小さな小さな船が下流へと進む。私は、この船が目的地に着いてからのことを考えた。

 恐らく彼女は待っていないだろう。私は利用されているだけなのだろう。それならそれでもいいではないか。このルートを通って隣国へ抜けるなんて、観光客は滅多にやらない、日本に帰って自慢できるぞ。そう、得難い経験を今まさにしているんじゃないか、彼女のことも含めて。
 川面を渡る風が、何か奥の方をざわつかせていった。


 国境を越える手続きのため、私たちは二度下船する必要があった。入国手続では十分な時間が取られ、銘々に昼食をとることとなった。あまり食欲など湧かず、果物売りの少女からスイカを二切れ買って、胃の中に収めることにした。
 スイカを売る少女と、彼女の違いは何だろうか。少しだけ、そんなことを考える。甘みが体に染みていく。


 船は狭い水路へと入り、ゆっくりと進んだ。水路の傍を行き交う人達を見ているうちに、徐々に心の準備が出来ていった。

 次は、何所の街へ向かおうか。

 

 運河を抜けて、また広い川へ出た。川の向こうに、今までの風景にはなかった大きな建物、この町唯一の外国資本のホテルが見えた。その辺りが目的地だ。船はゆっくりと接岸をし、私たちは追い出されるように陸に上がった。この国でやらなくてはならないこと、まずは現地通貨への両替と、今晩の宿を見つけること。もちろん安いに越したことはない。その点では、この外資系ホテルは眼中にない。
 そんなことを考えながら高級ホテルの敷地を抜けて、大通りへ出る。


 ショートカットの少女が所在無げに、大通りの並木に寄りかかっていた。萌黄色の涼やかなアオザイに身を包んで、誰かを待っているようだ。そして、私は彼女を知っている。
 待っていてくれたのか。こんな屑のような人間でも待っていてくれたのか。大雨の叩きつけるガラス窓のように、不覚にも視界が歪んだ。

 その少女は、初めて会った時よりも、もっと弾けるような笑顔で、初めて会った時のように私の腕に絡みつき、弾けるような笑顔で私を見上げた。
 私は彼女を抱きしめるのに何の躊躇もしなかった。ただ、彼女が恥ずかしがったので、また人前でキスをする習慣がないので、それだけは我慢をした。二人きりになってから、この感情を、私の深いところにある感情を彼女にぶつけよう。

 彼女は、それを受け入れてくれるだろうか。

 

 もう20年近く前の話だ。

 こんな屑の話に付き合ってもらい、感謝する。