恋文

 婆ちゃんが、渋谷に連れていってくれ、と言っていたので望みを叶えてやろうと準備を始めた。母はやめておけ、と言っている。人混みが何かストレスになってよくないのでは、と思っているようだ。そんなことはないよ、婆ちゃんを信じなきゃ。行きたいって言ってるのに行けない方がストレスじゃないかな、と言って無理やりに丸め込んだ。

 でも確かに、あの人混みに婆ちゃんを連れ出すのは不安だ。妹にも声をかけて、一緒について来てもらうことにした。洋服1着で手を打ってもらった。

 

 渋谷に行きたいと言い出してから、婆ちゃんは少し楽しげに見える。どちらかというとウキウキとしているのかもしれない。自分の部屋の真ん中に座って、胸に両手を当てて少女のように微笑んでいたりするのだ。

 

 婆ちゃんは、もうだいぶ記憶が曖昧になっている。歳を追うごとに、頭の中がどんどんと若返っているんだと思う。

 

 山手線を降りてから、駅を出て道玄坂へ向かう。婆ちゃんは人混みに驚いていたが、なんとかスクランブル交差点を渡るまでは漕ぎ着けた。和装の老婦人とそれを支える若者2人、という人の良心に訴えかけるシチュエーションは、良い方向に出たようだ。

 道玄坂を百貨店の方へ向かったところに行きたいと言う。百貨店というのはきっと東急のことだろうな、109の右手の道を目指す。

 坂を登り始めてすぐ、この辺りに細い路地があるの、というのだが、今となってはビルが隙間もなく建っていて、人が通れるような路地は見当たらない。道なんて見当たらないよと婆ちゃんに伝えると、落胆したような顔をして、この辺りって聞いたんだけど間違いだったのかね、と力なく呟いた。そして懐から一通の便箋を取り出して、それを見つめた。

 

 何となくわかった。……婆ちゃんが来たかったのは、ここだ。でももうその目的地はない。恋文横丁。今はもう、ここにそう呼ばれた路地があったという看板が残るだけだ。

 婆ちゃんは、いやこの女性は、想う人への恋文を託しにここへ来たのだ。ひょっとしたらそれは数十年をかけた決心なのかもしれない。

 多分こういうことなんだろうと妹に耳打ちをして、少し悩んでからひとつ嘘をつくことにした。妹は、少し目を潤ませて同意をしてくれた。

 

「ああ、代書を頼まれる方ですね? ……ええ、そうなんです。最近別のところへ引っ越しまして、こうして私が代理でお預かりをしているんですよ。

 こちらのお手紙を清書するのですね?仕上がりまで数日いただきますが、よろしいでしょうか? なるべく早くは仕上げますが、そうですねぇ三日、三日後に。それではお預かりします」

 

 ほっとしたような表情の婆ちゃんを連れてフルーツパーラーに入り、休憩をする。婆ちゃんは終始恋する乙女のようにニコニコしていた。妹は、人目も憚らず涙をこぼしていた。

 あんな嘘をついた以上は、三日後までに婆ちゃんの手紙を清書しなければ。でもひょっとしたら婆ちゃんは明日になったら全てを忘れているかもしれない。

 それならそれでもいい。ただ、ついた嘘には最後まで責任を持たなければならない。それはこの「乙女」に対する礼儀だ。

 恋する「乙女」は、満足そうにパフェを頬張った。

 

 

渋谷