踏切
山手線でただひとつ残っている踏切。それが田端と駒込の間にある。
私が山手線でその踏切を通りかかるたび、車窓から必ず見かける女性がいた。日本髪を結い、黒の留袖を着たその人は、日傘を品よく掲げて通り過ぎる電車を見つめていた。ああ、美しい女性だなぁ、と思いながら毎日通りかかっていた。
そう、彼女は毎日、そこに立っていたのだ。晴れの日も雨の日も、夏の日照りの日も冬のしんしんと雪降り積む日も。いつの日も彼女は、あの留袖姿で日傘を差して立っていた。
いつの日も、いつの日も。たとえ電車が遅れようとも、早番、遅番などで乗る時間が変わろうとも。私はいつもその場所で彼女の姿を見かけた。そしていつも彼女は電車をじいと見つめていた。
私は何か薄気味悪いものを感じた。毎日立っている、それはいい、いやあまりよくはないのだがまだ説明がつくかもしれない。でも、何故早い電車であろうと遅い電車であろうと、必ず彼女を見かけるのだ? 一日中そこに立っているのか?
それに何故、彼女はずうっと電車を見つめているのか?
ある日のこと。偶々深夜近くに、内回り電車で帰ることになった。西日暮里を出て田端を過ぎ、件の踏切に差し掛かる。
まさか、こんな時間にはいないだろうなと思い、いつものように窓から踏切を見た。
踏切に彼女の姿はなかった。
深夜の電車の窓は、車内の明るさと深夜ゆえの表の闇の明暗差で鏡のようになっていた。その暗い鏡のような窓、私の影の後ろに、日本髪を結い上げ、黒の留袖をきっちりと身につけたあの女性が、私のすぐ後ろに立っているのが見えた。
慌てて振り返り、改めて彼女の顔を見つめた。とても美しい人なのだが、顔の印象が全く残らない。ただその顔色の透き通るような白さ、いやむしろ青白さだけが目に焼き付いた。
「やっと、お会いできました……」
彼女がか細い声で囁いた。どこか涙声のようにも聞こえた。
「よろしかったら、暫しお付き合いいただけませんか」
その声に魅入られるようにして私は次の駒込で彼女とともに電車を降りた。
道みち、ポツリポツリと彼女が語り始めた。
「あの踏切で貴方様の姿を見かけてから、あなた様のことが忘れられなくなってしまったのです。可笑しいでしょう?
それからというもののあそこで電車の過ぎるのを待っていればあなた様に会える、お目にかかることができると思い、毎日立っていたのですよ」
抑揚のない声で話す彼女に、私は意を決して言った。
「そうだとしても、おかしいじゃあないですか。何故毎日立っていられるんです? それも同じ時間とは限らない、早い電車だろうと遅い電車だろうと必ず、だ。変じゃないですか」
それに、と私は言葉を継いだ。
「あなたには旦那がいるのでしょう。留袖を着ているのだ、少なくとも旦那がいたはずだ。私に一目惚れだなどと、大丈夫なのですか」
「……主人に、亡くなった主人によく似ていますの。だから」
何か悪いことを聞いてしまった気になった。
「だから、毎日あなたをお慕いして、あの踏切で毎日あなたの乗った電車が通るのをお待ちしていたのです」
これだけ一気に話した彼女の声はやはり平坦であった。一切の感情が感じられない。
そうしているうち、私たちは踏切へと着いた。この向う側は旧古河庭園へと向かうはずだが。一切何も、民家すら見えない。かと言って闇ではない。何もない、黒という色すら置き去りにされた“無”が線路の向こうに待ち構えていた。
「よろしかったら、私の家にいらして。いいえぜひいらして欲しいの。さあお手をお取りになられて。行きましょう、ご心配なさらず、悩みも憂いも、心に拘うものなど何もありませんわ。時も欲も無く、全てが一つとなれるの。きっと気に入っていただけますわ」
今起きているこの理解できない出来事に、私は恐れを感じていた、が、他方で目の前に広がる無が、少しだけ魅力的なものに思えてきた。
彼女に手を引かれるまま、私は一歩進んだ。
ふと、私の手を掴み後ろに強く引く力を感じた。
「何をやってるんだ、死にたいのか!」
目の前には、今まさに山手線のアルミボディが通過をしていった。
あの女性は? と私の手を力強く引いてくれた命の恩人に尋ねたが、そんな女性はいなかった、私がただ一人、ふらふらと踏切に引き寄せられていったんだと言われた。
とにかく、私は命拾いはしたわけだ。だがしかし、……それが正解だったのか?
その後、私はその踏切を通り掛からないようにしている。通勤路を、たとえ時間がかかろうが、逆回りにして。
彼女はきっと、まだあの踏切に立っている。私を虚無へと誘うために。