逃げる
「へえ。話には聞いていたけど、上野大仏ってこんなところにあるんだ」
「ああ、顔だけなんだけどな。ちょっと不思議なものだろう?」
「顔だけ、っていうのはなぁ。でもどこかしら神々しく感じるな」
「仏像なんだけどな」
「で、こんなところに呼び出して何の用だ?」
「……ちょっと歩こうか」
「故郷に帰ろうかと思うんだ」
奴は軽く切り出した。
「同期のお前にだけは先に言っておこうかと思ってさ」
こんな時にふさわしい情景は何だろうか。そぼ降る雨に霞む国立博物館? 動物園帰りの家族の、子供達のはしゃぐ声? 残念ながらどれも当てはまらなかった。
上野公園の、降り注ぐ初夏の日差しに映える新緑が眩しい。
「どうした? 何かいまの仕事に不満でもあるのか?」
真っ先に思いつくのがそれ、というあたりに俺の限界が見える。
「いや、仕事にそれほど不満はない。もうちょっと実入りがよければいいんだけどな。……なんだろうな、よくは分からない」
「気の迷い、ってやつか?」
「さすがにそんな理由じゃ帰れないよ。本当によく分からないんだ」
女にでも振られたか、とは思ったが、流石にそれは胸の奥に飲み込んだ。
俺たちは黙って広小路の公園へ向けて歩いた。
「ちょっと飲んでいくか?」
ここは上野だ、飲み屋には事欠かない。どうせならゆっくり話したい、なんなら酔わせて肚の底を探ってみたい。
「いや、よしておくよ。……本当はさ、分かってるんだ。理由はあるんだよ。
東京で暮らすのに慣れて東京に出て来るときの夢もいつの間にか忘れて、気がつけばやり直しの効く歳も過ぎた。ぼんやりと行く先が見えてきてさ。怖くなったんだよ。
何にも残っていない、そんな気がして。いや本当に『何にも無い』んだよ、このまままっすぐ行って、その先に何にも無いんだ」
奴は、淡々と話した。淡々とした割には重い内容に、ただ黙るより他なかった。
「だから、逃げるんだ。逃げた先にも何にも無いんだけどな。怖いんだよ、ここに居続けるのが怖くて仕方ないんだ」
そう言えば奴が昼休みに時折、ずっと空を見上げているのを見かけた事がある。あれは何かに耐えていたのか。
ふと奴を見ると、いつもと何も変わらぬ調子で奴は話している、ように見えた。奴の頰をとめどなく流れる涙以外は。
「そうだな」
それ以外に掛ける言葉なんて、何も思いつかなかった。
「どうする、御徒町まで歩くか?」
「いや、上野まで戻るよ。ありがとう、話を聞いてくれて。少しだけど気が楽になった」
「帰る前に一度、いい飯でも食べに行こうや」
「構わないけど、今さ、何を食べても味がしないんだわ」
奴は静かに笑って、去って行った。
上野