のっぺらぼう

 ボルドー色のパンプス以外に、その女性のことが思い出せない。

 ついさっきまで、ホテルに一緒にいたというのに。どんなコートを着ていたのか、髪はロングだったかショートだったか、どのような肢体であったか、どんな声だったか。顔さえも靄がかかったようにぼやけて、何の印象も残っていない。

 帰り道に、コンビニに寄る。その時の店員の顔はどうだったろうか。太い黒マジックで乱雑に塗りつぶされたようで、顔かたちをまったく覚えていない。彼、いや彼女だったか、そもそもそこからなのだが。制服くらいしか覚えてはいない。だがまあ、買い物に不都合はない。

 道すがら考える。皆、顔を覚えていない。顔が無いのと一緒だ。だがそのことで何か不都合があるか? ボルドーのパンプスも、コンビニの制服も、すべて俺の必要とする要件を満たしてくれている。顔が無くとも問題無いではないか。

 ふと、小泉八雲の『怪談』を思い出す。そう、行く先々で顔の無いのっぺらぼうに出会う、ムジナの話だ。顔の無い人たちと出会う点では、今の俺と状況は全く変わらない。では、俺の体験は『怪談』なのか?

 

 馬鹿げている。俺は一人ベッドに横になり、天井を見上げてそう呟いた。

 

 怪談でも何でもない、都会に生きていれば、すれ違いに出会う人なんて顔を覚える必要もない。仕事先だってそうだ。座っている場所と名前、後は体型くらいで誰かを認識しているじゃないか。少なくとも俺はそうだ。あとは社内のチャットで事足りる。クライアントなんて下っ端の俺じゃ、メールでしか知らない。

 顔なんか、要らないじゃないか。俺は布団に包まり、浅い眠りに就いた。

 

 翌朝、低気圧でも近づいているのだろうか、重苦しい気分で目を覚ます。無性に頭が痛い。

 眠気覚ましに顔を洗い、何の気無しに鏡を覗く。鏡の中には、靄のかかったような、太い黒マジックで乱雑に塗りつぶしたような顔が映っている。

 

 お前は、誰だ?

 まったく印象に残らないのだ。