スピードボートが停まったのだ

 バックパッカーでほぼ満席となった、この国境を越えるスピードボートは、終着の港を前に大河の中央で停止した。そして行き交う小船の引き波に揺られ、およそ2時間30分が経過した。
 携帯電話が鳴る。私の到着を待っている、彼女からの連絡だ。
 今どこにいる? 川のど真ん中だ。
 何時ごろ着く? 分からない、船が故障している。
 船はいつ直る? 全く分からない。
 いつ陸に上がれる? 分からない、どこにも行けないんだ!
 最後の言葉がどうやら共感を産んだらしく船内満場の歓声を呼び、その中彼女との通話は終了したところで状況は何も変わらず船が動く気配はない。
 僅かに貧乏揺すりをする。わずかに、本当にわずかだが、ぴちゃんと、水が溜まっている気配を感じる。私の考えは、ここで悪い方向に回転を始めた。
 国境を越えるスピードボートと言えば聞こえはいいが、強力な船外エンジンを付けた小型ボートにFRP製の屋根を取り付けただけの代物だ。出入口は前方一か所、窓は外が辛うじて見える程度の小さなものがいくつかあるだけだ。
 そして、バックパッカーでほぼ満席、というのは一番最初に言った。皆巨大なバックパックを持ってこの船に乗り込んでいる。載せきれない荷物はFRPの屋根の上にまで括りつけられている。
 ここまでくれば私の不安の正体が見えようというもの。
 
 今の段階で浸水してきたら、この船、どうなるんだ?
 
 人荷満載、出入り口は前方に一つ。エンジンは故障、進退窮まる。おまけに私の席は比較的後ろの方ときた。どう考えたって出口まで行ける画が浮かんでこない。かといってここでそのことを言って下ろせというわけにはいかない、それこそパニックが起きかねない。
 私がしなければならないことは誰にも気づかれず、いざとなったときには真っ先に行動できる準備をすること。誰よりも先に前方の出入り口へ!
 ぴちゃり、とした足の感覚が、先ほどより大きくなった感じがする。追い詰められた人間の心象表現かもしれない。いやそんなことはない。現実だきっと現実だ。私は少しだけ通路側に尻をずらす。溺れ死にだけは絶対に嫌だ!
 隣のドイツ人、いやフランス人かもしれない、だがそんなことは些末なことだどうでもいい、が、
「Are you alright?」
と声をかけてきた。ここで悟られてはならない、悟られればパニックになる。そうなれば私の目論見がすべて水泡に帰してしまう。作り笑顔で、大丈夫だ、いつ動くんでしょうね、と返しておく。もちろん目は一寸も笑っていない。船内中央の空き具合を確認しながら、だ。
 ぴちゃん。また少し水が溜まってきたように感じるいや溜まっている。この頃になると他の乗船客の間にも何か怪しい空気が漂い始める。ボートのキャプテンが船外でいろいろやっているのが見えるがエンジンに日が入る気配は一向になく。ああ、私の頭の中は絶望で埋まっていく。
 やがてキャプテンが近くの船に声をかけ始めた。声を掛けられた船が何やら携帯電話で話し始める。相手はこちらの船よりより小さい、手漕ぎの船じゃないか! だからと言ってどう状況が変わるというんだ!
 船内を覆う絶望に似た澱んだ空気に中てられ、そろそろ遺書代わりのメモでも認めようかとしていたところ、気が付けば周りに6,7艘の船が寄り集まっていた。これらに分乗していけというのか? という状況でもないらしい。
 
 我らの乗った船は集まった手漕ぎの船らに曳航され、目的の桟橋へと向かった次第。この数時間で私は結構心を削られた。だがまだ分からんぞ、足元の水はどうだ? ……それほど増えていない。大丈夫なのか?
 
 結局のところ私は、国際ターミナル(ただの岸壁だが)に到着して地面に足を付けるまで一切油断をしなかったのだ。いやほんと死ぬかと思った。


 その後この航路に都合6回、3往復乗船したが、エンジントラブルはそのうち4回。なかなかいい確率である。
 だが、死を覚悟するまでに至ったのはあの一回だけだ、いや、感覚が何か麻痺してしまったのかもしれない。