トンカツ特区

 数年前に、安全無菌な豚肉というのが出回り始めた。
 その豚肉を使った、中がまだピンク色をしたミディアムトンカツが爆発的に流行った。
 そして我が国の流行は、より極端になっていくのが常である。火の通り加減がよりレアなものになっていった。
 次に始まるのは、価格競争だ。いかに安く提供をできるかコストカットが始まった。
 どこかがより安い豚肉を求めて、「普通の豚肉」を使い始めた。本末転倒、最も手を付けてはいけないところだ。

 あとはお分かりだろう、普通の豚肉をレアで出したら何が待っているのか、は。

 

 トンカツに懲りて膾を吹く。全国規模で、トンカツを提供することが全面的に禁止された。
 ただお役所にもトンカツ好きがいたのだろう、各自治体の一角でのみ、トンカツを供することが許された。
「トンカツ特区」の誕生である。

 

 ここで余計なことを言ったクレーマー気質の誰かがいたらしい。
「トンカツ特区」であれば、トンカツだけを出すべきだ、そんな法令が数年前に施行された。……全く余計なことを。

 

 そのため、皿の上にただ一枚だけ乗ったロースカツを見つめて呆然としている私が、今ここにいるわけだ。

 左隣の御常連であろう彼は、慣れた手つきで持参した千切りキャベツを皿の上に置いている。右隣のサラリーマンは保温ランチジャーからご飯と味噌汁を嬉しそうに並べる。

「悪いね、とりあえずソースと塩、練り辛子は付くからさ」
 言葉の割にはどこか浮かれたような、そんな店主の声が私の右耳から左耳へと抜けていった。

 

 諦めてロースカツに箸を付けようか、と思った矢先、すっと箸が伸びてきて、私の皿の上に千切りのキャベツが置かれた。
「いつも買ってるキャベツ屋、量が多いんすよ。余るより食べてもらった方がいいんで」
 左隣の常連客が照れくさそうに目も合わせず、早口で言った。今度は右隣から白飯が一口分、申し訳なさそうに置かれた。なにも言わず、そっと会釈をするサラリーマン。
 私は感謝の思いに胸が熱くなり、手を合わせた。
「いただきます」

「あ、ひとくちめは是非塩で食べてみてよ」
 店主は自慢げに言った。だが言われなくとも分かっているさ。このロースカツはきっと、涙で少し塩味だ。