浩文

 その男が訪ねてきたのは、一週間前のことだった。

 男はこんな田舎の集落では珍しく、濃い鼠色の背広に身を包んでいる。こちらに、浩文、というものがいるはずだが、と尋ねてきた。

 いや我が家に浩文という名前のものはいない、お訪ね先を間違っているのではないかと返すと、いやそんなはずはない、これを浩文君に渡してもらいたい、と長さ二十センチほどの木製の箱を押し付けるようにして去っていった。

 木箱は丁寧な彫刻が四面ぐるりを覆ってい、天地両面に寄木細工の文様が貼り付けられた、一目で作りが良いと分かるものであった。しかし彫刻といい寄木細工の文様といい、どこか妖しさを感じるものであった。

 箱の処遇を考えあぐね、あの男が、やはり間違いであったと取りに来るかもしれないので一旦は床の間に置いておくことにした。

 

 その夜。

 キチ、キチ、キチという虫の声のような音が家の中に響いた。音の出処は床の間からだ。

 何事かと思い床の間へ向かうと、音は止んだ。何だったのであろうかと釈然としないまま寝床へ戻ると、一時間ほどしてからまたキチ、キチと音が鳴った。床の間へ行くと音はすぐ止んだ。

 こんなことを三度も繰り返しただろうか、これはあの箱のせいなのだろうと見当をつけ、箱を見に行くことにした。

 当然ながら箱は昼間置いたまま、その場所にあった。少し違ったのは、天板の縁から、黒い粘り気のあるものが染み出していたことだ。不気味なので、明日にでも処分しようと思い、いったん寝床に戻ることにした。それから箱は鳴らなくなった。

 

 翌日、箱を処分しようと床の間へ向かうと、昨晩見たはずの、天板から黒くにじみ出たものはその影もなかった。夜中なので見間違いであったかと思い、今日まで一旦おいておくこととした。何か変なことが起きるようであればその時には処分をしてしまおう。見張りもかねて今日は次の間に寝ることにした。

 

 二晩目。

 あの、虫の鳴くような音は鳴らなかった。

 鳴らなかったが、次の間を、ざり、ざり、と畳を擦るような音が聞こえてきた、次の間には、他に誰かいる。誰かいて部屋の中を這いずっている。流石に不気味になり、目を開けるのも躊躇われた。

 やがて這いずる気配は床の間の方へ向かっていき、仕切りとなっている襖の向こうへ消えた。途端、昨晩より大きくキチキチキチキチと、鼓膜を劈くような音が響いた。

 布団から飛び出、襖を開けると、床の間一面があの黒く粘つくもので覆われ、その上に足跡が乱雑についているのが見て取れた。キチキチという音はいまだ止まずに響いていた。襖をばしんと閉め、頭から布団をかぶり、これは夢だ、と念仏でも唱えるようにうずくまって一夜を明かした。

 

 日も明けぬうちから、玄関の戸をガンガンと叩く音が聞こえた。出たくはなかったが、立ち去る気配がないので止むを得ず布団から出て玄関へと向かった。

 

 戸を開けると、先日の、鼠色の背広を着た男が立っていた。

 

 あの箱はいったい何なんだ、と問い詰めようとしたがそれより早く男は家に上がり込み、一目散に床の間へ向かい件の箱を持って足早に玄関へ向かった(なぜ床の間にあると分かったのだろう?)。

 男は靴を履きながら、この箱は間違いであった、これは浩文に渡すものではなかった、これは明宏のものだとぶつぶつ呟き、挨拶もなく出て行った。文句の一つも言おうと表へ出ると。男の姿はすでにどこにもありはしなかった。

 

 それからはあの嫌な音が聞こえることもなかったし、ましてや誰かが這いずるような気配もありはしない。鼠色の背広を着た男のことは夜中夢に見ることはあるが、ただそれだけであったし、何よりその男の顔は塗り潰されたようになってどのような顔であったかを思い出すこともできないのだ。