うなぎ

 二人は差し向かいで、うなぎが焼きあがってくるのを待っている。

 男は押し黙り、突き出しのお新香をかじりながら、ちびちびと酒などを口に運んでいる。女は俯き、膝の上で硬く握りしめた自分の両の拳を、じっと見つめている。

 ウナギの油が爆ぜたのであろうか、うなぎの、どこか泥臭いような香ばしい香りが漂ってくる。

 

 女は後悔をしている。こんな男と二人きりで、なぜうなぎ屋なんぞに来てしまったのだろう。そっと顔を上げる。男の、てらてらと脂ぎった顔が目に入る。爬虫類のような顔付きに、嫌気がさす。この男は卵を丸呑みできるに違いない。なんなら、うずらの卵ならば殻ごと一呑みにするだろう。

 

 男は、かぶと焼きを囓りながら嬉しそうに、自身の思う美味いうなぎの食べ方などを意気揚々と語り、合間合間に杯を口元へと運ぶ。背筋に怖気が走る。そもそもかぶと焼きという選択が私には理解できない。ここは倶利伽羅じゃないの。また視線を自身の拳へと戻す。

 重ねて思う。なぜ誘いを断らず、うなぎやに来てしまったのだろう。今日の腹は同じ長いものでも蕎麦かうどんだったはず、でも、仕方がないじゃないの、うなぎよ、うなぎ、文字で書いてみなさいよ、

 

『う』と書いて

『な』ときて

『ぎ』で締める、

 

こんな蠱惑的な言葉を耳元で囁かれてしまったらああ、断れはしないわ、ねえ誰もがそう思わなくて? 一体心の中で何を言っているのだろうかこの女は。

 でもやはり来るんじゃなかった、酒の二合も空けてよい心持ちになり、より一層テカりを増した男の額や鼻の頭を見て改めてそんな考えに捕らわれる。奥歯でたくあんでも噛んだか、パリッという威勢のいい音が響く。もう我慢ならない。

 

「お待たせいたしましたぁ」

 

 意を決し、私は帰ると告げようとしたその矢先である。障子が勢いよく開いて、女中の威勢の良い声が響いた。そして銀の盆には蓋をされた黒塗りの椀が二椀、そしてやはり黒塗りの、立派なお重が二つ。さあ腹を括れ、女よ。

 

 二人は無言で箸を動かす。何度となく塗られたタレは表面を彩り、赤銅色宜しく照り輝いている。そんなうなぎを、ただ黙々と口へ運ぶ。

 時折、肝吸いを飲む。その滋味に口中から食道、胃の腑まで残っている余計なうなぎの脂が流されていくようである。かみしめる肝の甘味と苦みが、一層食欲を増進させる。

向かいの男の唯一の美点は、鰻の食べ方をそれなりに分かっているところだ。特に、うなぎが二段になっているような小賢しい特上を選ばないところは、なかなかに得点が高い。本当ならば、うな丼にしたかったんだがね、お重はご飯が食べづらい、などと顔も上げずに飯を搔き込みながら言いのける様など、この男を見くびっていたと思わざるを得ない。何よりもこの店のうなぎは、とても旨い。店の選択は完璧だ。

 

うなぎの滋養は、女の心をも動かす。このまま男に言い寄られても、あるいははい、と言っていたかもしれない。しかし男は駅へ向かいすたすたと歩いていく。ちょっと待って、ここはタクシーを拾って一緒に乗ろうとして、そんなつもりじゃありません、なんてひと悶着あるところじゃないの、あたしは貞操の危機を感じるところよ、なあんてそんな小芝居に乗り気なこの気分をどうしてくれるの、紳士か、お前。

 なんだったらお返しに美味いうどんでも奢ってくれよ、とだけ男は言い残し、二人は駅で別れる。こんなに精をつけて、あたしはどうすればいいのよ、と帰りの電車で一人理不尽な怒りを覚えるが、ふと甦るあのうなぎの味に、そんなことはどうでもよくなるほどの悦楽を覚える。覚えると同時に鉄の匂いをかすかに感じて。

鼻血がひとすじ、流れた。