送別会

 その人とは、それほど仲がよかったわけではない、むしろ嫌われていると思っていたくらいだ。僕のいる社内のサービスカウンターに来るときはいつもむっすりしていて、たまに口を開くときには僕たちに対するクレームばかり。正直なところ、ちょっと苦手な女性だった。

 

 そんな彼女が会社を去ることになった。何故か送別会のお誘いが僕らのところにもやって来た。別に嫌っていたわけではない、行きましょうか、ともう一人に声を掛けて、二人して参加することとなった。

 送別会は、楽しいものだった。社内の盛り上げ係が複数参戦していたおかげで盛り上がりに盛り上がっていた。ただ主賓のその人だけは、所在無げにしていた。

 盛り上げ係の一人が僕を呼び寄せた。ほらあの人の隣に行けよ、お前ら仲良かったじゃん。周りにはそう映っていたのか。心外、いや意外だった。押し付けられるようにしてその人の隣へと行った。

 真っ先に、今まで煩いこと言ってごめん、と明るく謝られた。そしてグラスのビールを一気にあおった。乾いた泡のいくつかを残して、グラスは空になった。飲んでる?と言って僕のグラスになみなみとビールを注いで、ついでに自分のグラスにもビールを注ぎ、はい乾杯、とグラスをこちらに出した。乗せられるように杯を合わせ、チン、という小さな音が鳴った。

 僕が隣に来てから彼女の酒は陽気になった。他愛もない話や僕の失敗話を持ち出して、僕の肩をバシバシ叩きながらよく笑った。こんな表情を見たことがなかったので、あまりの意外さに僕は少々面食らってしまった。

 

 最後の主賓の挨拶で、僕はその人が結婚を機に辞める、ということを知った。

 

 送別会が終わり二次会もぐだぐだとして流れ解散のようになり、気がつけば、帰る方向が同じだったその人と僕は、同じ電車に乗っていた。そして酔った勢いもあるだろうか、いや正直かなり酔っていたその人は、よく喋り、僕は少々面食らった。そしていろいろと話をした。辞めるきっかけは確かに結婚だけれども、本音は文章を書いてそれで認められたいこと、人付き合いが苦手で、うまく喋れないだけで嫌ってたわけじゃない、むしろ気に入っていたといった、ちょっと意外なことまで。

 酔った勢いの気紛れで、家まで送りますよ夜道は危ないですから、と言ったところ、そうしてもらおうかな、コーヒーくらい御馳走するから、とすんなり返事が返ってきた。社交辞令のつもりだったのだが。

 その人の家の近くにあった、閉店寸前のコーヒーショップでまた少しだけ話をした。たくさんの夢の話を聞いた。あらゆることに煮詰まっていた僕には、その人がとても高貴に映った。

 その人を部屋の前まで送り駅へ向かおうとするところ、不意に手を握られ、抱きしめられ、そしてキスをされた。僕は呆然として為すがままだった。

 別れ際の挨拶と言うには、その人のキスはとても深いものだった。僕の唇を割って入ろうとするその人を拒むことなく、暫しの間、絡み合った。行き所のない腕は、その人をしっかりと抱きしめることにした。

 

「……しよっか、最後だから」

 

 その人は、僕を優しく、そして熱く迎え入れた。ただ一度だけ交わす情なのに、いやそうだからこそなのか、より強く身体を合わせ、僕も、深く、浅く、それに応えた。その人の歌う歓喜の歌と、一筋の涙。それらに見守られ、僕はこの刹那の想いを吐き出した。そしてもう一度、深い、深い、名残を惜しむようなキスをした。

 

 その後僕はもう一度その人の部屋を訪ねようとは思わなかったし、すぐに、その人は新しい生活のために引っ越していったと、仕事仲間から伝え聞いた。感傷などでは決して無い、何処か晴れやかな気持ちでいた。

 

 ただ時折、その人は今、何をしているだろうか、と思う。

 ただ、それだけだ。