ホクトベガの話

 ある人は彼女について、「ジンタが似合う」と評した。なるほどその通りだ、と思う。

 成績だけで見えてくるものではない、彼女の駆け抜けたその生涯は、哀愁と呼んでよいのかもしれない。

 そんな馬、ホクトベガの話をしたいと思う。

 

 初めて彼女の名を知ったのは、一九九三年のエリザベス女王杯だったと思う。ただその名を聞いた、というほどのものであった。

 桜花賞オークスと勝てずにいた。その二レースを勝った西の最強牝馬、ベガとの対決を制し、「ベガはベガでもホクトベガ!」と実況アナウンサーに絶叫なさしめたレースであった。

 ただこの時は、そこまで私の心を動かすものではなかった。《ベガはベガでもホクトベガ!》、このフレーズの調子の良さが、記憶の片隅に残ったくらいのものであった。

 そしてしばらくして女王の名は華やかな表舞台に現れることはなく、私もその名を記憶の片隅から引き出すこともなかった。

 

 

 私は、諦念の中にいた。大学を中退しようかと悩み、バイト先に正社員で潜り込もうか、それにさえも踏ん切りがつかず自堕落となり、半ば腐し、足掻くことすら忘れていた。どこへも踏み出せずに、バイト仲間とスポーツ新聞の競馬欄に目を走らせて、ああだこうだと無駄な話をすることが日課となっていた。

 

その頃、中央競馬地方競馬との交流戦というものが始まっていた。今まで共に走ることのなかった中央競馬地方競馬の馬たちが、幾つかのレースで争う。それまでは、例えば大井競馬の馬が中央競馬のレースに出ようと思ったら、美浦栗東へ移籍をしなければならなかった。ハイセイコーオグリキャップがそうだった。

それが、いくつかのレースに限られるが、中央と地方の垣根が取り払われたのだ。そしてその頃、あの忘れられた女王の名が、一葉の写真とともに再び紙面を踊った。

 

ホクトベガ川崎競馬エンプレス杯を圧勝》

 

 写真には、ゴール板の前を悠々と通過するホクトベガと、その遙か後方、まだ第四コーナーを回ったばかりではないかというほどの遙か後方に馬群が写っていた。大差。何馬身差などではなく大差。見出しのとおりに、圧勝と呼ぶより他の無い勝ちぶりであった。

 粟肌の立つ思いがした。反骨心からだろうか、地方と中央の馬にそこまでの差があろうか、という思いがあった。その思いを、ホクトベガは易々と打ち砕いてみせたのだ。いかにGⅠ馬とはいえこれだけの圧勝を見せるものか。口惜しさと、ある種の恐ろしさが押し寄せてきた。

 そこから彼女の快進撃が始まる。順不同に、川崎、船橋、高崎、大井、盛岡、浦和。地方競馬の中央交流戦を軒並み勝っていく。そして中央の、ダートの重賞フェブラリーステークス。彼女はダートのレースで負け知らずであった。

 そして、彼女はいつしか『砂の女王』と呼ばれた。

 

砂の女王』、その高貴なる名には、ジンタが似合った。

 

 地方を回り、そこに集まるファンたちに快勝劇を見せ、そして次の地方へ向かう。まるで旅回りのサーカス団のように。中央のダートレースにはGⅠグレードの設定もなく、まだまだダート戦の地位が低かったこともあった。だからこそ彼女の活躍する姿には、華々しさとともに哀愁があった。しかし私には、彼女がこれ以上なく輝いて見えた。華やかな舞台ばかりではない、地に足をつけた力強さを感じていたのだ。どこまで勝ち続けられるのか、見届けたいとも思った。

 一九九七年の川崎記念が、彼女の国内最後のレースとなった。彼女はドバイワールドカップから招待を受け、海を渡ることとなったのだ。私は心の中で快哉を叫んでいた。GⅠを一つ勝った後に忘れ去られようとした馬が、地道に一つ一つ勝って、海外から出走の招待を受けるまでになる。これ以上のドラマがあるか。三冠馬なんかより美しいではないか。

 

 そして『砂の女王』は、ドバイへ旅立ち、その地で砂塵となった。

 

 何故だ。何故彼女がそんな目に合わなければならない。GⅠを取った、ダートで国内負け無し。日本に戻れば繁殖牝馬として、その子どもたちの活躍も期待できたろうに。それすらも彼女には叶わないのか。

 そのとき、私の奥の方で、ジンタのうら悲しいメロディが流れてきた。

 彼女には、ジンタが似合う。うら悲しさを湛えたメロディが似合う。

 伝説という言葉は、今となっては安っぽいが、彼女の生涯は伝説と呼ぶに相応しいと、今でも思う。

 彼女は、その生涯を駆け抜けていった。検疫の問題で彼女の遺体も骨も、日本へ戻ることはなかった。日本にある彼女の墓には、彼女の遺髪だけが納められた。

 

 

 余談ではあるが。

 ホクトベガ快進撃の始まり、川崎競馬では彼女の名を顕彰し、スパーキングレディースカップに、『ホクトベガメモリアル』を冠している。

 彼女の名は、まだ生きているのだ。