野狐

「……しかしよ、駿河屋は災難だったなぁ」
「ああ、押し込みに入られて店にいた者皆殺しって。あれですね」
「ひどいことするもんだねぇ」
 小さな街道の、峠の入り口にある木賃宿で、二人の旅人がそんな世間話を始めた。

 

 武州の山奥から甲州を抜けて海に至る街道の、この小さな峠の入り口は大雨に煙っていた。その煙る先、雨露を凌げる程度の粗末な木賃宿が立っていた。
 元より宿にいた客は三人。年の頃なら三十路を越えたかの女が先刻より板の間の隅に陣取り、掻巻に包まってじっとしている。その目はあらぬ方を見つめているようであり、時折ブツブツと呟いては、顔を伏せ、またあらぬところを見つめている。
 そして商人らしき二人連れが、囲炉裏の傍に座り、火の番をしている。囲炉裏では火がかっかと燃え。五徳の上では鍋がフツフツと煮えている。宿の主人が塩漬けにしておいた茸を置いて行ったので、それを使って茸汁を煮ている。疲れているのか二人ともあまり口を利かぬ。ただ手だけは黙々と動き、薪の世話や鍋の煮え具合など抜かりなく済ませている。
「おい姐さん、姐さんもどうです?」
 鍋も煮えたのだろう、奥にうずくまる女に商人が声を掛けようとしたその時、破れ戸が、がたん、と乱暴に開いた。


「こりゃあひでぇ雨だぜ、今日のうちに峠を越えちまいたかったんだがなぁ」
「全く、なんでこんな時に限って前の宿の旅籠がどっこも空いてないんでしょうかねぇ」
 旅姿に簑を羽織った二人連れが、剥ぎ取るように簑を脱ぎ、泥に汚れた足を洗うもそこそこに、ずかずかと上がり込んできた。
「おっ茸汁かい。旨そうじゃねぇか」
 一人が五徳の上の鍋を覗き込んで言った。
「そんなもんより、おう、酒は無いかね酒は」
 突然のがさつな来訪者に静寂を破られた宿で、二人の商人風情が眉をひそめていた。これでゆっくりと休める保証はなくなったのだ。
「私が寝酒に持ち歩いている焼酎でよろしければ、大した量ではありませんがお譲りしますよ」
「おう、悪いね。遠慮なく貰っとくよ。お代は、すまねぇ後にしてくれなぃ」


 焼酎で旅人二人は腹を暖めすっかりと人心地をついた。そこで話し始めたのが、件の駿河屋のことであった。

 

駿河屋さんのことはお話に聞いておりましたが、そうですか、そんなひどい有様でしたか」
 鍋の世話をしていたほうが話に応えた。
「そうなんだよ、非道ぇもんだろ? いくら盗人とはいえ、やっていいことと悪いことがあらぁな。そうは思いませんかね、旦那」
 茸汁を啜りながら、旅人の片割れが言った。口のよく回る賑やかな男だ、と二人の商人は眉を少しひそめた。

 

「……ひどい有り様だったそうですよ、お店の者は、丁稚さんまでみんな殺されて。女中もお店の一人娘もここじゃあ言えないようなひどい目に遭って、やはりみんな殺されて」
 部屋の隅の女が、誰に向けてともなく呟いた。
「そのお店の女将さんは、たまたま実家に用があってそこに泊まっていたんで難には遭わなかったそうですけどね、……辛かったでしょうね、代わりに死んでしまいたいほどに辛かったでしょうね。娘を弄ばれて殺した奴どもを殺してやりたいでしょうね」
 女は、どこか遠いところを見ていた。

 

 暫し、部屋の中を沈黙が支配した。

 

「ああ、そのお話でしたら私の耳にも入っております」
 火の世話をしていた商人が口を開いた。
「全く恐ろしいものです。……私どものつてで聞いたところでは、なんでも“野狐”とかいう盗賊だそうで」

「そう、それよ。“野狐”ってのは店の者にも気付かれず、殺さず犯さず盗みを働く本格の親方って聞いていたんだけどよぅ。あんな畜生働きなんぞするとは思えないんだよなぁ。そうだろ、新三?」
 口の達者な旅人がぽつりと口にし、暫くの間を持って新三と呼ばれた相方が、憚るように口を開いた。
「……代が代わったんですかね。それとも、」
「それとも、なんだい?」
 声を一層ひそめて言った。
「“野狐”を騙ったか、ですね」

 

「そんな度胸のある奴はいませんよ。“野狐”を騙ればハクが付くとでも思いましたのですかね」
 火の番をしていた商人が、含み笑いをしながら言い、言葉を継いだ。
「でも、威勢のよろしい御調子者であれば、そんなことを考えるやもしれませんね」
「そういえば、別の伝で聞いたのですがね。なんでもそいつらかどうか知りませんが、どこぞの盗賊の隠れ家で捕物があったそうで」
 もう一人の商人が口を開いた。
「粗方は捕まったらしいと聞いたんですが、その、“野狐”を入れて幾人かは取り逃がしたらしいですよ。中でも、その親方ともう一人、これの行方が全く分からない。親方ともう一人で二人組、ですか」
 旅人たちが、おちゃらけて囃す。
「お前さん達も、俺らも二人連れだねぇ」
「そう言えばそうですねぇ。偶然てものは面白いものですねぇ」
 商人たちは笑いもせずに応えた。

 女は未だ、遠いところを見ていた。

 

 深夜。
 囲炉裏の火は熾となり灰に埋められ、暗闇となった部屋の中で二つの人影がのそりと動き、他の二つの人影に寄り、枕元に屈み込んだ。

「……てめえら、捕方の狗か。俺らのことをどこまで知っていやがる」
「なんのことだい?」
「惚けんじゃぁねぇよ。“野狐”の通り名なんざぁ、素人にゃあ知っているもんじゃねえ。手前ら、堅気じゃねぇだろ、なあ」
「……だとしたら、どうしますね? ここで口を塞いじまいますか?」
「事によっちゃあな。最初の質問に答えろ。“何処まで知っていやがる”」

 先程、鍋の世話をしていた商人が低い声で言い、口の達者であった旅人がそれに応えた。

 

「お前さん方が言ったところまでは、まあ裏は取りました」
「手前らやはり狗か!」
「まあ落ち着きなせぇよ、“七塚の喜三郎”どん。血生臭い噂はよく耳に入ってくるよ。外道働きの糞野郎、ってね。駿河屋の件も手前らの仕事だってのはすぐ分かったし、娘さんに惨いことしたのは、それ、そこにいる狸吉って奴と喜三郎、手前ぇだってところまでは、調べがつきましたんで、ね」

 もしこの部屋を月明かりが照らしているのであれば、“七塚の喜三郎”と呼ばれた商人の顔が、怒りでみるみる赤黒くなっていくのが見られたはずだ。

 

 旅人は続けた。
「ご安心なさい、あんたたちを捕方に差し出すようなことはしませんよ。あたしらだって同じ穴の狢だ、売るような真似はしません」
 喜三郎はどこかで生への安全な期待を抱いた。目の前にある、この男を始末する必要が無くなった、と感じた。
「そうかい、そりゃいいや。どうだい、お前さんたちがよけりゃあ一緒にやらねぇかい、ほとぼりが覚めた頃によう、もう一仕事だ。考えてみねぇか」
「……ただね」

 旅人は話を無視するように続けた。
「“野狐”を騙ったのは不味かった。不味いよ、喜三郎どん。あそこのお店はな、何年も前から狙ってたんだわ、“野狐”が。手前らのお陰で大事な引き込みが一人いなくなっちまったよ」
 喜三郎の胸元を、背筋を、冷たいものが走り、額からは脂のようにねっとりとした汗が吹き出した。
「悪ぃな、一緒にゃ出来ねぇや。いややる気なんざこれっぽっちも無ぇな。
“野狐”の名前、軽く見てもらっちゃぁ困るねぇ、喜三郎どん」
「手前ぇ、それじゃ手前ぇが“野狐”か!」
 そう叫ぶと喜三郎は懐から反射的に匕首を抜いた。抜いたと同時に、喜三郎は脇腹に、ずくん、とした衝撃と、直後にはらわたをかき混ぜられるのを感じた。その衝撃の方を見やれば、部屋の隅であらぬところを見ていた女が鬼のような形相で、匕首を腰溜めにして喜三郎の脇腹に深々と突き刺したまま見上げていた。
「こ、この女ぁ!」
「おぅ、教えた通り出来たじゃねぇか。……新三!」
 もう一人の旅人の方へ声を掛けるより早く、二人分の人影が崩れ、くぐもった悲鳴が一度だけ聞こえた。ゆらりと立ち上がる手元には、分不相応に手入れのされた旅刀が、暗闇の中、僅かに光を湛えていた。相変わらず我慢の利かねぇ奴だなぁ、と“野狐”は呆れた。

 

 女は、駿河屋の女将であった。
 旦那を殺され、娘を犯された上に無惨に殺され、この後生きていく気力を失い、荒川に身を投げようかとしたところを、“野狐”に助けられた。
 “野狐”は“野狐”で、何故助けようと思ったのか本人にも分かりはしない。気まぐれ、としか言い様がない。
 敵を取りたいなら手伝ってやる、但しタダじゃあない、これこれを貰っていく、と“野狐”。よござんす、そんなものでよろしければお安うございます、と女将。
 “野狐”は、二つのことだけを女将に教えた。匕首は腰溜めにして身体ごと当たりに行く、刺さったら必ず、抉ること。
 

 女将は、“野狐”の言いつけを忠実に実行した。喜三郎の脇腹に突き立てた匕首を捻り、引き抜いた。喜三郎は呻き声をあげ、片膝をつくその隙に再度腰溜めに構え、身体ごと当たった。切っ先は喜三郎のどこぞの骨に当たり、匕首を捻る際にその骨をこじる様な形となった。喜三郎の口からは、獣の咆哮の如き声と、暗闇なので分からぬが恐らくは、喉の奥から昇り来る赤黒く泡立った血反吐が吹き出し、膝から崩れるように板の間に倒れ込んだ。

 
 女は喜三郎だった肉塊に跨がり、匕首を幾度も幾度も突き立て、抉った。最初のうちこそ、断末魔であろうか喜三郎の身体が、びくん、と跳ねもしたが、今や動く気配すらもなかった。
 女は匕首を突き立て続け、ざくり、ざくりとその音が板の間に響いた。仇を取った達成感ではない、高揚感または快楽が女の全身を支配していた。顔に張り付いた返り血も既に凝固し黒ずみ、あらぬところを見据える目線と共に、妖しげな美しさを彩っていた。

「……満足したかい?」
 “野狐”が女に声を掛けた。女はただ妖艶な、それでいて人を惑わせるような笑みを浮かべるだけであった。
「悪いな、顔見られちまってるからよう」
 “野狐”は懐に呑んだ短刀の鞘を払い、ひょう、と女の首筋へと走らせた。脈打つ鮮血が,゙野狐“の顔に掛かり、その温もりに、女の生命が流れ出ていくことを感じさせた。
 女は、恍惚の表情を浮かべたまま、黒と赤の血溜まりにその身を横たえた。

 “野狐“はその様を見つめ、ただ、おっかねえなぁ、とだけ呟き、新三と共に、雨が止む気配のない表へ出ていった。