美味い店

 温泉街の緩やかな坂を下っていくと、右手に小さな食堂があった。
 食堂の入り口は小さなショーケースとなっていて、持ち帰り用ののり巻きやおはぎなどが、数多くではないが並んでいた。

 私は知っているのだ。こういった店は大概、美味い。

 中に入ると、一人、先客がいた。その女性は小上がりに小さくなって座り、ラーメンを静かに啜っていた。私は素っ気ないおかみさんにおはぎを二つ注文して、同じく小上がりに席を求めた。件の女性は、変わらず静かにラーメンを啜っている。
 厨房の奥では、店の主人がそれほど忙しげでもなく、動き回る気配がする。おかみさんはレジのあたりに陣取っている。
「次は来週かい、戻ってくるの」
 おかみさんが女性に声を掛ける。優しげな声だ。
「ううん、月末かな。十周年で忙しいから」
 女性は静かに答える。
「そう、体壊すまで無理するんじゃないよ」
「うん、わかってる」
 
 私は想像をする。小上がりの彼女は、華やかな夜の世界の人なのだ。それはそんなに外れていないと思う。しかし十年というのはもうベテランと呼んでいい。若い娘に客を取られぬよう、いやもう実際にはなじみの客数人ほどが頼りで、それを繋ぎ留めるために無理をしているのかもしれない。シャンパンタワーとは無縁な十周年、そんな彼女の人生を頭に思い描く。

 ラーメンを食べ終えた彼女はどこかへ電話を掛ける。二言三言、打ち合わせの言葉と、電話の相手に迎えに来るよう伝え、静かに電話を切る。
「お待ちどうさま」
 少しの愛想を含んで、おかみさんが目の前におはぎとお茶の入った小さな急須を置く。かなり大ぶりなそれは控えた甘さで小豆の香りの立つ、今までに食べてきたおはぎの中でも一、二を争うほどだ。
「美味しい」
 あまりの美味しさに、唸るように呟く。
「ねえ、美味しいってよ」
 件の女性がおかみさんに伝える。おかみさんはちょっと照れ臭そうに笑顔を見せる。

 やがて迎えの車が表に横付けになる気配がし、彼女は席を立つ。
「それじゃまた、月末ね」と、彼女。
「ちゃんと帰ってくるんだよ」と、おかみさん。

 私は知っているのだ。こういった店の食べ物は、間違いなく美味い。