この日の悔恨を糧とせよ
「どこも空いてなかったね」
丸出しの下心をへし折られた男が言う。
「そうねー。仕方ないんじゃない?」
この男に対して、すでに興味がなくなった女が棒読みの言葉を返す。
そう、どこのホテルも満室だったのだ。
ようやく漕ぎ着けた、たぶんイケる(何が)と思ったデート。上野あたりのちょっと気張ったお店で食事をして、事前調査で見つけた日暮里近くの隠れ家的バーで少し飲んで。さあこれからと(何が)意気込んで、ホテルを探してここ西日暮里界隈に来たのはいいが、お目当てのそれはどこも満室であったのだ。やり場のない下心を抱えて、とりあえず路地裏の居酒屋に入ることにした。
バーまではよかったんだけどね、と思ったんだけど。その後がねぇ。詰めが甘いっていうの? そういうことなのよ。
何がいけなかったんだ? 西日暮里にホテルを探しに来たことか? いや、たまたま運がなかっただけだ、そうに決まっている。
あそこまでちゃんとお店選んだのは認める。ものすごい努力の跡が見えるもの。
でもなんでそこでラブホかなぁ。なんかツメが甘くない? シティホテルを取るとかすればアタフタしなくていいのにね。
それに、バーを出たところから顔に「ヤリたい(何を)」って書いてあるし(笑)。そういうのはもうちょっと隠そうよ。
あーあ。次は無いかなぁ。
さめたわー、最後の最後でさめたわー。
次誘われたらどうしよっかなー。
「そろそろ帰ります? 」
「そうねー」
「……ここの居酒屋は、悪くなかったかな。次はここで飲まない?」
さあ、最後はどちらのセリフだ。
男か、女か。
西日暮里
北へ向かう列車
深夜。
私は、田端駅のホームで山手線を待っていた。
この駅の隣には、車輌基地がある。現在は、はやぶさやこまち、つばさなど北へ向かう新幹線が並んでいるのだが。
我が目を疑った。目の前に並ぶのは、昔見慣れた青い車輌。ブルートレインというやつだ。それとそれらを牽引する、紅い電気機関車たち。一昔前の車両たちが、目の前に並んでいた。
今は、平成も終わろうとしているよな、疲れているのか俺は。だが待てよ。今は深夜だ、何故この時間に夜行列車であるブルートレインたちが並んでいる?本来なら北へ向けて走っていなければならないのでは?
すでに頭の中は混乱をしていた。
視線を遮るように、大宮方面行きの京浜東北線ホームに古めかしい客車が入線してきた。葡萄色に塗られ、威風堂々とした風体の電気機関車EF58、そして同じく葡萄色の、リベットの目立つ客車。白熱灯が灯る車内には幾人かの乗客の影が見える。
いつの間にか私の脇に、駅員が立っていた。しかしその制服は古めかしい。駅員はしたり顔で言った。
「お乗りになりますか?」
薄気味が悪い。誰が乗るものか、こんな得体の知れない列車。
しかし待てよ。ひょっとしたらこれは、所謂イベント列車というやつではないのか。車輌区に残った旧車輌で走る特別列車。……こんな深夜に? 寝台車輌でもないのに。
「この列車は、北へ向かいます」
駅員は告げた。
「北のどこまで行くんですか。青森? 秋田?」
「北、です。目的地は乗った方次第です。北の果てでも、何処へでも。
ここは分岐点です。北へ向かうなら、迷わずにこの列車にお乗りなさい。今までの日常が良いのなら、……何も変わらない、変わっていくものをただ傍観するつもりなら……山手線をお待ちください」
駅員は慇懃に、挑発的なことを私にぶつけた。改めて駅員を見る。ニヤリと笑ったような口元。だが鼻から上、目元のあたりまでは一切印象に残らない顔だ。それは決して彼が制帽を目深に被っているからだけではない。
やがて、発車を告げるベルが鳴った。
北か。悪くはない。いっそ全てをかなぐり捨てて飛び乗ってしまうか。十分に悩むといい、とでも言うように、長く、長く鳴り続けた。
ベルが鳴り止み、古ぼけた客車はゆるゆると、音も無く滑り出す。そして闇の中へと溶けていく。
私は、田端駅のホームで変わらぬ日常を待っていた。
田端
踏切
山手線でただひとつ残っている踏切。それが田端と駒込の間にある。
私が山手線でその踏切を通りかかるたび、車窓から必ず見かける女性がいた。日本髪を結い、黒の留袖を着たその人は、日傘を品よく掲げて通り過ぎる電車を見つめていた。ああ、美しい女性だなぁ、と思いながら毎日通りかかっていた。
そう、彼女は毎日、そこに立っていたのだ。晴れの日も雨の日も、夏の日照りの日も冬のしんしんと雪降り積む日も。いつの日も彼女は、あの留袖姿で日傘を差して立っていた。
いつの日も、いつの日も。たとえ電車が遅れようとも、早番、遅番などで乗る時間が変わろうとも。私はいつもその場所で彼女の姿を見かけた。そしていつも彼女は電車をじいと見つめていた。
私は何か薄気味悪いものを感じた。毎日立っている、それはいい、いやあまりよくはないのだがまだ説明がつくかもしれない。でも、何故早い電車であろうと遅い電車であろうと、必ず彼女を見かけるのだ? 一日中そこに立っているのか?
それに何故、彼女はずうっと電車を見つめているのか?
ある日のこと。偶々深夜近くに、内回り電車で帰ることになった。西日暮里を出て田端を過ぎ、件の踏切に差し掛かる。
まさか、こんな時間にはいないだろうなと思い、いつものように窓から踏切を見た。
踏切に彼女の姿はなかった。
深夜の電車の窓は、車内の明るさと深夜ゆえの表の闇の明暗差で鏡のようになっていた。その暗い鏡のような窓、私の影の後ろに、日本髪を結い上げ、黒の留袖をきっちりと身につけたあの女性が、私のすぐ後ろに立っているのが見えた。
慌てて振り返り、改めて彼女の顔を見つめた。とても美しい人なのだが、顔の印象が全く残らない。ただその顔色の透き通るような白さ、いやむしろ青白さだけが目に焼き付いた。
「やっと、お会いできました……」
彼女がか細い声で囁いた。どこか涙声のようにも聞こえた。
「よろしかったら、暫しお付き合いいただけませんか」
その声に魅入られるようにして私は次の駒込で彼女とともに電車を降りた。
道みち、ポツリポツリと彼女が語り始めた。
「あの踏切で貴方様の姿を見かけてから、あなた様のことが忘れられなくなってしまったのです。可笑しいでしょう?
それからというもののあそこで電車の過ぎるのを待っていればあなた様に会える、お目にかかることができると思い、毎日立っていたのですよ」
抑揚のない声で話す彼女に、私は意を決して言った。
「そうだとしても、おかしいじゃあないですか。何故毎日立っていられるんです? それも同じ時間とは限らない、早い電車だろうと遅い電車だろうと必ず、だ。変じゃないですか」
それに、と私は言葉を継いだ。
「あなたには旦那がいるのでしょう。留袖を着ているのだ、少なくとも旦那がいたはずだ。私に一目惚れだなどと、大丈夫なのですか」
「……主人に、亡くなった主人によく似ていますの。だから」
何か悪いことを聞いてしまった気になった。
「だから、毎日あなたをお慕いして、あの踏切で毎日あなたの乗った電車が通るのをお待ちしていたのです」
これだけ一気に話した彼女の声はやはり平坦であった。一切の感情が感じられない。
そうしているうち、私たちは踏切へと着いた。この向う側は旧古河庭園へと向かうはずだが。一切何も、民家すら見えない。かと言って闇ではない。何もない、黒という色すら置き去りにされた“無”が線路の向こうに待ち構えていた。
「よろしかったら、私の家にいらして。いいえぜひいらして欲しいの。さあお手をお取りになられて。行きましょう、ご心配なさらず、悩みも憂いも、心に拘うものなど何もありませんわ。時も欲も無く、全てが一つとなれるの。きっと気に入っていただけますわ」
今起きているこの理解できない出来事に、私は恐れを感じていた、が、他方で目の前に広がる無が、少しだけ魅力的なものに思えてきた。
彼女に手を引かれるまま、私は一歩進んだ。
ふと、私の手を掴み後ろに強く引く力を感じた。
「何をやってるんだ、死にたいのか!」
目の前には、今まさに山手線のアルミボディが通過をしていった。
あの女性は? と私の手を力強く引いてくれた命の恩人に尋ねたが、そんな女性はいなかった、私がただ一人、ふらふらと踏切に引き寄せられていったんだと言われた。
とにかく、私は命拾いはしたわけだ。だがしかし、……それが正解だったのか?
その後、私はその踏切を通り掛からないようにしている。通勤路を、たとえ時間がかかろうが、逆回りにして。
彼女はきっと、まだあの踏切に立っている。私を虚無へと誘うために。
染井吉野
「この辺りがさ、ソメイヨシノの発祥の地なんだって。ほら、こんなところに碑がある」
「おお、本当だ。こんな改札を出てすぐ目の前の白山通りを渡ってすぐ、線路脇に目立たずひっそりとあるなんて」
「誰に対する丁寧な説明なんだそれは。まあ実際はこの辺から駒込にかけてらしいけどね」
「そういやさ、ソメイヨシノって、なんで一斉に咲くか知ってる?」
「知らね。でもそう言えば桜って一斉に咲くなぁ。なんで?」
「ソメイヨシノってさ、タネから育たないんだって」
「へ? それじゃどうやってあんなに生えてんのよ。結構な数だよ、あれ」
「うん。あれさ、みんな接ぎ木なんだって。だから、みんなおんなじ木なんだよ、理屈上は」
「へえ」
「みんなおんなじ木だから、咲く時期も一緒になるんだってさ。だからあれだけ計ったように一斉に咲く」
「なるほど。詳しいね、親戚にソメイヨシノでもいるのか」
「違うわ。テレビで見たの」
「なんだ受け売りか。でも為になった、ありがとう」
「ドイタシマシテー」
「あ、その言い方はなんかイラっとくるな。前言撤回しようかな」
「ああごめん悪かった。チロリアン買ってあげるから許して」
詠唱
都電荒川線は緩やかな坂を下りきった、ここ大塚駅前で大きく左に曲がり、山手線の高架に隠れるようにして停まった。そう多くはない降車客と乗り換え客を詰め込み、小さな一両編成は北へと走り出す。
僕は駅前の広場で、それをぼうっと眺めていた。何もやる気が起きず、電車の中で過呼吸のようになり、どうにもならなくて飛び降りた駅が、たまたま大塚駅だった、というだけなのだが。
会社には体調不良ということで休みを貰った(明日から僕の席はあるだろうか)。とにかく平静を取り戻したいと、駅前の広場にあるベンチで何も考えずにじっとしていることにした。
何本かの都電の上り下りを眺めているうちに、だいぶ心が落ち着いてきた。ふと、口を突いて言葉が出た。
「おーつかー……」
「……かどまーん……」
?! なんだ? どこから聞こえてきたんだ?
「……おーつかー……」
「……かどまーん……」
隣に座った老爺が、子連れの女性が、口々に言い始める。
「おーつかー」
「かどまーん」
ステレオ、サラウンド、5.1ch。右から左から前から後ろから、山手線の高架に反響し、あらゆる所から、
「おーつかぁー!」
「かどまぁーん!」
なんなんだよ、かどまん って!
「おおーつかぁぁぁーー!」
「かどまぁぁぁーーーん!」
大塚
ミネルヴァに仕える
「池袋ってさ、何かがおかしいんだよね。どこかチグハグなんだよ」
サンシャインシティの地下で買ったブルーシールの紅芋ソフトをせっせと口に運びながら、君が言う。チグハグ。チグハグねぇ。だいたい何を言おうとしてるかは分かる。
「そう、空間の歪みが顕著じゃないか、ここ池袋は。なんで東に……」
「東に西武で西に東武があるんだ、だろ。アイス溶けるぞ」
「で、その理由はわかってるんだよ」
君は滴れかかった紅芋ソフトを舌ですくい上げる。ありがとうくらい言ったらどうだ、おい。
「この地を司る女神が石に変えられてしまっているからな。ほら、待ち合わせ場所にあるだろう」
ああ、『いけふくろう』な。ちょっと訂正をしたほうがいいな。あれは女神じゃなくてフクロウだし、もし女神の使い魔のことを言っているなら、それはフクロウじゃなくてミミズクだ。あれ、そうだったけ? ちょっと自信はない。まあそれはどうでもいいか。
「どうだ、二人で女神を解放しないか? そうなれば我々は英雄だ、夢があると思わないか?」
あーあーあー、もう手がベタベタじゃないか。女神を解放する前に洗面所で手を洗ってこよう、な?
「よし、それでは行くぞ。付いてきな」
はいよ。どこまでも付いていきますよ。
「……手を繋いで行くぞ、悪い奴らに付け込まれないようにな」
手、ベタベタだよ? なんでそんなに満面の笑みで手を差し出すかな。……そうだね。手を繋いで行こうか。
池袋
相棒
目白の駅まで来い、って一体なんだってんだよまったく。今日は雨になるっていうからあんまり出かけたくないんだけど。どうしても頼みたいことってなんだよ、そういうのは勿体つけないで先に言ってほしいよな。
改札を出て右手、いつもの待ち合わせ場所にヤツは先に着いていて、どんよりとした空をぼうっと見上げていた。側にはヤツのバイク。出会った時から乗ってるバイク。こいつが動かなくなるまで乗り続けるんだ、なんて言ってたな。
「ああ、来てくれたんだ、ありがとう。……ちょっとさ、大事な話があってさ、そこの喫茶店で話そう」
何か思い詰めてるのか、ヤツはいつもと様子が違う。とりあえずは駅の隣にあるホテルのカフェで話をすることにした。
「あのさ、言いづらいんだけどな。……バイク、降りることにしたんだ」
へ? あれだけ乗り続ける、って言ってたのに? 他人にまでバイクはいいぞ、お前も免許を取れって言ってたのに?
「うん、なんかごめん。本当にごめん。免許まで取らせたのにな」
まったくだよ、人のことを巻き込んでおいて。いち抜けた、ってなんだよそれ。
「で、お願いがあるんだ。これのことなんだけど」
目の前にバイクのキーを差し出してどうしたんだ、人の言うことを聞いているのかおい。
「こいつにな、乗ってやってほしいんだ。引き取ってもらおうと思ったんだけど、流石にそれには忍びない。思い入れが強すぎるんだな。で、お前に乗ってもらいたいと思った。いや是非乗って欲しい。お願いします」
なんだよ、何もかも勝手に決めて。ふざけんなよ、そんな言い方されたら断れないじゃないかよ。なんだよそれ。
「ヘルメットは、これ、プレゼントするよ。新品だから安心して」
なんだよこんな派手なの。センス無いんじゃないの、……いや悔しいけど俺より遥かにセンスがいい……。
ちょっと長めの沈黙を挟んで、ヤツのスマホが振動し、メッセージの受信を告げる。二三のやり取りの後、口を開いた。
「迎えが到着するみたいだから、そろそろ行くわ。どうする?」
迎え? なんだそれ。
表に出ると目白通り、右手の学習院の木立を切り裂くように? 一台の真っ赤な軽自動車がやってきた。その軽の助手席にヤツは滑り込んだ。
運転席には、言ってはなんだが冴えない男。それと楽しそうに話すヤツ、彼女。そうかそっちを取ったってわけか。
挨拶もそこそこに、赤い軽は目白通りを練馬方面へ走り去っていった。後には、彼女の愛車だったバイクが、いつの間にか降り出した梅雨どきの柔らかな雨に打たれていた。
お互いに捨てられちまったな、あいつは薄情だよなぁ。
キーを差し込んで右に捻る。ケッチン喰らうならそれでもいいや、一気にキックペダルを踏み込むと、俺の相棒は悲しみに満ちた咆哮を上げた。
これからよろしくな。
目白