歴史になるというのはこういうことかもしれない

 今日、東大生と高校生が競うクイズ番組を見ていたら、トキワ荘マンガミュージアムについての問題があったんです。この問題については高校生の方が回答をして、その回答についての解説を、自らしていました。実はちょっとここのところで違和感を感じてしまったんですよ。


 彼が解説した概要に誤りはありませんでした。ちょっと違和感に感じたのは、「手塚治虫という歴史上の人物」という扱いで話をしているように聞こえたことなんです。いやそれはもはや仕方のないことなんですよ。彼ら高校生が生まれる遥か以前に手塚治虫は亡くなっています。言うなれば彼らにとっては歴史の一部です、教科書の数行・年表の数行に過ぎないのかもしれないのです、興味がなければ。


 しかし僕ら、昭和四十年代、ギリギリ昭和五十年代くらいまでの人間は、手塚治虫にしろ石ノ森章太郎にしろ赤塚不二夫にしろ、みんな現役で、その当時に書いた漫画をリアルタイムで読んでいる、わずかな期間でも同じ時間を生きている実在した天才、巨匠なんですよね。そのあたりのズレが、違和感の正体なんだろうな、と思います。あるいは年代の壁というか。


 わずかな期間でも同じ時間を生きているゆえに僕らは、例えば手塚治虫という存在に血肉を感じられるんだと思います。彼が生きたおよそ60年ちょっとを、現実の長さとして受け止められる。
 でも手塚治虫が亡くなった以後に生まれた人たちにとってはそうではなくて、先も言った通り年表の数行に収まる人なのかもしれないんだなぁ、というちょっとした寂しさみたいなものを感じたりするわけです。生きてきた道のりが圧縮されてしまうような感覚というか。

 

 歴史になる、っていうのはそういうことなのかもしれません。卑弥呼だって藤原道長だって織田信長だって坂本龍馬だって、それぞれの人生を生きているはずです。ただし教科書や年表上ではその人生が圧縮された状態で記されている。布団圧縮袋に入れられてぺったんこになった状態なのかもしれません。それらが昔から大量に積み重なっていって、新しい歴史が入ってきたら一番上に重ねられる、そんなものなんじゃないかと思います。

 その圧縮された中にはきっと彼らの喜怒哀楽が詰まっているのだけれど、表からは見えないんだろうなぁ、と。

 実際には布団圧縮袋に入れてもらえるだけでも良いのでしょう。そこにすら入れない人たちのほうが遥かに多いはずで。そんな人たちでもやっぱり笑ったり泣いたり怒ったりしていたんですよきっと。

 

 ちょっととりとめもない話になりました。
 年表に載れない人生でも、精いっぱい泣いたり笑ったりしましょう。