人間の屑の独白、或いは、無題

 人間の屑のお話。



「私を連れ出してくれませんか。お家に帰りたい」

 幾度めだっただろう、彼女を「買った」ときにベッドの上でそう言われた。彼女は隣の国から来て、ここで働いている。彼女を連れ出すということはつまり、身請けをしてくれ、とそういうことだ。
 それもいいか、と思った。他人の人生を買う、人間の屑にはピッタリだ。

 


 

 以前から噂はあった。

“とある国に、信じられない値段で若い娘が抱ける村がある”

と。

 噂は本当だった。そのとある国の首都から少し離れた場所に、その村はあった。一軒二軒の置屋ではない、村の入り口からメインストリートに沿って両側全てが置屋。見た目は一般家屋にしか見えないそれらの店の軒先に女たちが屯し、通りかかる男たちに色目を使っていた。
 そのうちの一軒に、彼女はいた。カタコトの英語で、
“うちに来て! みんないい子だよ!”
と言って私の腕にぶら下がって自分の店に連れて行こうとする。さてどうしようか、と決めあぐねていた私は、取り敢えず彼女について行くことにした。

 


 

「もし、もしですよ。彼女を身請けするとしたら幾ら払うことになりますか?」
 三度目にこの国へ来て幾日か、 置屋のオーナーに、おずおずと話を切り出した。その時、私はどこまで本気だったのだろう。

「2,500ドルだね。この子はよく働くから」
 “よく働く” の意味はあまり考えたくなかった。
「それに借金もある。そういうのを合わせて、2,500だね」

 2,500ドル。当時のレートでおよそ25万円相当か、もう少し上だったか。ひと一人の人生を買うには安すぎる。だが、その人生を左右する額の半分すら持ち合わせていない。
 お金がないと、彼女に言い訳ができる。どこか心の奥の方で安心をしていた。

 


 

 照りつける強烈な日差しと対をなすように店の中は暗く、目が慣れるまでに少しばかりの時間を必要とした。カーテンで仕切られたさらに奥の部屋へ招き入れられ、オンボロのソファに座らせられた。
「ちょっと待っててね」
 彼女はさらに奥へと。入れ違いに、四十歳ほどだろうか、恰幅の良い女性が現れた。いらっしゃい、と愛想よく挨拶をして、向かいのソファに座る。
「いま来るから待ってなさい」
 比較的流暢な英語でそう言い終える頃に、私を連れて来た彼女が奥から出て来た。その後に続いて、両手に少し余る人数の女性が、いや少女たちが私の目の前に並んで立った。

 


「2,500ドルだって。いくらなんでもそんな金額、払えないよ」

 置屋の、彼女に充てがわれた部屋で、オーナーとの話を正直に伝えた。彼女は少しがっかりした表情を浮かべ、目を潤ませた。
 残念だったね、当てが外れたんだろう? 私はどこかでそう思っていた。バカな客から金を巻き上げるチャンスだったのにな。私が2,500ドルを払って君は一週間くらい隠れて、私が帰国した頃合いにまた店に出ればいい。よくある話だろう?
 そんな思いとは裏腹に私は、もっと奥底の方から何か例えようのない感情が込み上げてくるのを感じていた。

 


「この子は最近入ったばかり、この子は上手……」
 彼女は私にじゃれつくようにして、説明を始めた。
「みんないい子、みんな18歳。誰を選ぶ? 2人でもいいんだよ」
 年増の女性がそう言って私の顔を伺った。どうやらこの店のオーナーらしい。
 みんな“18歳”だって? そんな訳あるか。もう一度少女たちを見回した。

 目が合うと顔を背ける子がいた。

 なんとか笑みを浮かべる子がいた。

 既に男を誘う術を知っている子がいた。

「ねえ、誰を選ぶ?」
 彼女はそう言って、笑顔で私を見上げた。誰を選ぶか、もう決まっている。とびきり可愛いわけではないが、底抜けに明るい子だ。

「君だ。君がいい」

 私を見上げている、私の膝の上にいる少女に、そう告げた。
 見逃してしまうほどの短い時間だが、彼女は少し戸惑った表情を浮かべた。そして満面の笑顔を見せた。

 


 

 目に涙を溜めたまま、彼女はずっとうつむいていた。長い沈黙。私は何か弁解をしようとして口を開きかけたが、その前に彼女が意を決したように私に語りかけてきた。

「わかった。でも大丈夫です。一緒に私のお家に帰りましょう」

 


 日本では考えられないような金額で、私は彼女の一晩を買った。彼女は努めて明るく振舞っていた。

 日本に帰るまでの残り二日、私は彼女と過ごすことにした。昼過ぎに彼女を迎えに行き、バイクタクシーに乗って街中を周り、決して高級ではないがちょっとだけ小綺麗な食堂で食事をして、ホテルに向かう。そして彼女は明け方に、迎えのバイクタクシーに乗って帰っていく、その繰り返し。そして私は、自分の国へと帰っていった。

 


 

 彼女は、大事なことを話す時には言葉遣いが少し丁寧になっているような気がした。

「私を一週間、買ってください。そして一緒に、隣の国の、私の故郷に旅行しましょう」

 でもそれじゃまた帰ってくることになるんじゃ?

「大丈夫です。私はそのまま家に残ります。もう戻りません」

 そんなことをして大丈夫なのか。女主人に嘘をつく、ということか。あとで君がひどい目にあったりしないのか。私は動転をし、おろおろし、訳が分からなくなっていた。

「大丈夫です。私のいう通りにやって。上手く行くから大丈夫」

 


 

  彼女はベッドに横になり、枕を抱えて、ずっとテレビを見ていた。テレビに映っていたのは隣の国、つまり彼女の国のクイズ番組。クイズ自体は他愛のない、教科書に載っているような内容のものだった。恐らくは解答者なのだろう、彼女とおよそ同い歳と思われる子たちが映っていた。
 彼女はそれを、ただじっと見つめていた。番組を見て喜ぶでもなく、かと言って悲しむでもなく、じっと見つめていた。
 番組が終わり、彼女はいつもの笑顔で私の方へ向き直り、キスをした。なにもする気は起きず、ただベッドの中で彼女を抱きしめた。

 最初、少し困ったような顔をしたのはなぜ? このタイミングで聞いたものかどうか。
「他の子を選んでほしかったから。そうすれば私はお仕事をしなくて済む」
 そうか。明るく振る舞って主人の手伝いをしているのは、彼女なりに自分を守る手段だったのか。
「私はあなたが一番気に入ったから選んだんだ。嫌だった? 」
 愚問だ。
「ううん、優しい人でよかった。ひどいことをする人もたくさんいるから」
 私のことを優しいと言ってくれるか。君を買っている時点でロクな人間ではないのに。
「他のかわいい子と違って、私にまた会いに来てくれる人なんていなかったもん。それに乱暴なことしないから。だから優しくていい人」
 そんなことで、ただそんなことだけで、私のことを“優しい”と思うのか。
 この国に来てから今までの、彼女のことを想う。ただそれだけで涙が出てきた。

「……なんで泣いてる?」
 私の顔を不思議そうに覗き込む彼女を愛おしく思った。

 だがきっとそれは一時の気の迷いだ。

 


 

 翌朝。戻る彼女に付いて、置屋へと向かった。女主人と対峙し、彼女の描く通りのことを切り出した。昨日の今日だ、怪しまれてもおかしくはない。じっとりとした汗が毛穴という毛穴から吹き出したのは、高温多湿のせいだけではない。

 女主人は二つ返事で快諾した。こちらが拍子抜けをするほどに。
 七日間で350ドル。彼女は今日の夜ここを出るから、明日からにしておきましょうと、女主人はにこやかに言った。

 


 

 彼女に聞いた。
「もし帰ることができたら、何をしたい?」
「学校に行きたい。勉強が好きだったんです」
 そう言って荷物の中から通知表を出して私に見せた。“1”がたくさん並んだ通知表。それが最高評価なんだろう。

 その“1”が、ある日を境にぷっつりと途切れる。

「帰りたい……」
 そう言って、目に涙を溜めた。それはやがて彼女の頬を伝い、私の胸を少し濡らした。
 彼女を買い、彼女を抱き、果てた気怠さの中、彼女は私に向き直り、こう言った。
「私を連れ出してくれませんか。お家に帰りたい」

 


 

「ね? うまく行ったでしょう?」
 彼女の部屋で、ポカンとした私に向かって彼女は楽しそうに言った。
「もう借金はそんなに無いの。今度ので終わり。あの人は悪い人」
 ぺろりと舌を出して、悪戯っぽく笑う。そうか、吹っかけられたのか私は。


 ここから先は、おおよそ女主人の言った通りだ。今日の夜、彼女は故郷に帰る。私は翌日ビザの発給を受けて、明後日の朝に彼女の故郷の近くにある、比較的大きな街へ向かう。到着は、運がよければ夕方頃になる予定だ。

 ビザは何事もなく発給された。ついでに、隣国までのツアーの予約手続きを済ませた。ツアーと言っても、隣国へ抜けるバックパッカー向けの片道ツアーだ。色々とオプションを勧められたが、丁重にお断りをした。

 翌日は隣国へ向けて出発しようというその日の午後、私はあの女主人の置屋にいた。ただ一夜の相手を探しに。

 言っただろう、こんな遠い国まで女を買いに来る奴に、まともなのがいるわけが無い。屑はどん詰まりに吹き溜まるものだ。そして行き場を失った風に浮かれて舞い上がるものだ。

 髪の長い少女が私の脇に座り、手を添えた。ギクシャクとした、僅かな微笑みを浮かべて。

 この子にとっては精一杯のアピールなんだろう。もちろんお仕事として、だ。

 翌日に向けて、やるべきことはやった。最後の“遊び”だ。そんな身勝手な開放感から、少女をホテルへ連れていった。

 あまり表情の無い少女だった。

 シャワーを浴びて帰るまでの間、少女はベッドの端に座り、私に話しかけてきた。

「あの子と一緒に、あの子の故郷に行くんでしょう? あの子はお家に帰るんでしょう?」

 ああそうだね、と気の無い返事をした。

「私ね、あの子と同じ町から来たの。あの子は帰れるんだ」

 少女はただじっと私を見つめた。あの時の彼女と同じだ。じっとテレビを見つめていた、喜びや悲しみではない、ただまっすぐと見つめるあの表情。諦念、なのかもしれない。

 少女はこれからもここに残る、お仕事のために。

 深夜、一台のバイクが少女を迎えに来た。少女は振り向きもせず、帰っていった。

 

 陸路で隣国最大の都市を目指すツアーには二十人弱のバックパッカーたちが集まり、ゲストハウス兼ツアーフロントに横付けされた大型バスに乗り込むのを待っていた。
その傍ら、川を下って国境越えをするのは私を含め僅か三組。大型バスが走り去ったあと、その影に隠れていたオンボロのワゴンに私たちは詰め込まれた。
 このまま途中にある大河まで行き、そこから先は水路となる。


 早瀬などあろう筈もないこの大河を、小さな小さな船が下流へと進む。私は、この船が目的地に着いてからのことを考えた。

 恐らく彼女は待っていないだろう。私は利用されているだけなのだろう。それならそれでもいいではないか。このルートを通って隣国へ抜けるなんて、観光客は滅多にやらない、日本に帰って自慢できるぞ。そう、得難い経験を今まさにしているんじゃないか、彼女のことも含めて。
 川面を渡る風が、何か奥の方をざわつかせていった。


 国境を越える手続きのため、私たちは二度下船する必要があった。入国手続では十分な時間が取られ、銘々に昼食をとることとなった。あまり食欲など湧かず、果物売りの少女からスイカを二切れ買って、胃の中に収めることにした。
 スイカを売る少女と、彼女の違いは何だろうか。少しだけ、そんなことを考える。甘みが体に染みていく。


 船は狭い水路へと入り、ゆっくりと進んだ。水路の傍を行き交う人達を見ているうちに、徐々に心の準備が出来ていった。

 次は、何所の街へ向かおうか。

 

 運河を抜けて、また広い川へ出た。川の向こうに、今までの風景にはなかった大きな建物、この町唯一の外国資本のホテルが見えた。その辺りが目的地だ。船はゆっくりと接岸をし、私たちは追い出されるように陸に上がった。この国でやらなくてはならないこと、まずは現地通貨への両替と、今晩の宿を見つけること。もちろん安いに越したことはない。その点では、この外資系ホテルは眼中にない。
 そんなことを考えながら高級ホテルの敷地を抜けて、大通りへ出る。


 ショートカットの少女が所在無げに、大通りの並木に寄りかかっていた。萌黄色の涼やかなアオザイに身を包んで、誰かを待っているようだ。そして、私は彼女を知っている。
 待っていてくれたのか。こんな屑のような人間でも待っていてくれたのか。大雨の叩きつけるガラス窓のように、不覚にも視界が歪んだ。

 その少女は、初めて会った時よりも、もっと弾けるような笑顔で、初めて会った時のように私の腕に絡みつき、弾けるような笑顔で私を見上げた。
 私は彼女を抱きしめるのに何の躊躇もしなかった。ただ、彼女が恥ずかしがったので、また人前でキスをする習慣がないので、それだけは我慢をした。二人きりになってから、この感情を、私の深いところにある感情を彼女にぶつけよう。

 彼女は、それを受け入れてくれるだろうか。

 

 もう20年近く前の話だ。

 こんな屑の話に付き合ってもらい、感謝する。

 

 

兄と弟

「……正直今になって、俺はお前の兄だ、お前の家族だ、と言われても実感がないんです。むしろ戸惑うばかりで。私には兄弟姉妹はいない、そう聞いていますから」
 私は苛立って、目の前に座っている兄に言った。そうだ、兄弟姉妹はいないというのは嘘だ、私にはただ一人、兄がいることを知っていた。

 私は養子に出された。もう三十年ほども前の話だ。

 
 数週間前、一度会えないかと“兄”から連絡があった。何を今さら話すことがある、と思った。
「私に兄弟姉妹はいない、そうして育ってきたんです。父も母も、私にはもう今の父母しかいません」
 私は電話口で、そのように“兄”に告げた。僅かに、朧気に残った、もうすでにあやふやな、もとの家族の思い出を切り離すようにして。
「だから、今になって私の人生に波風を立てるのは止めてほしいんです」

 それでも“兄”は、一度でいい、二人で話をさせてくれ、と喰い下がった。なんとか切り離すようにした、朧気で形を失いつつある過去が、不意に毒を、棘を持って喉元を下って行こうとしていた。それと入れ換えに、有らん限りの罵声が口を割って出ようとした。

 

 結局会おうと思ったのは何故だろう。“兄”だからだろうか。その“兄”に直接罵ってやろうと思ったからだろうか。

 待ち合わせに指定されたステーキハウスは半地下になってい、その奥まった席に、“兄”はすでに座っていた。恐らくは一番良い背広を着てきたのだろう、だがこの薄暗い店内で見ても明らかにくたびれたものだった。テーブルに視線を落とし、ただただじっとしていた。
 私は向かいの席に腰を下ろした。“兄”は視線を上げ、気まずそうに目をそらした。


 暫しの沈黙ののち、電話口で話したことを繰り返すように、“兄”に告げた。“兄”は相変わらず、目を合わせようとはしなかった。私に会うからだろう、髭こそ綺麗に剃っているが、口元や頬の弛み、目元の皺に生活の疲れが見てとれた。
 三十年から音信不通で突然会いたいなんて、お金の無心ですか、一体いくら欲しいんですか。腹立たしさと、みすぼらしい兄の姿を見たことで、危うく私はそんな言葉をぶつけるところだった。

 “兄”はウェイターを呼び、ハンバーグステーキを二人分オーダーした。もっといいものを奢りたいんだが、見ての通りだからこれで許してくれと、“兄”は恥ずかしそうに言った。そして、少しづつ話し始めた。

 

「本当に申し訳なかったと思っているんだ、俺も、母も。お前、いやすまない、君になんの説明もなく養子に出すようなことになってしまった。
 あのときの家は、本当に余裕がなかった。荒んでいた。君が生まれて半年くらいして、父が家出をした」

 

 小さな小さなガラスの器に入った、申し訳程度のサラダが二つ、そして小さなカップに入ったコンソメスープが二つ給仕された。
 それらに手を付けることもなく、兄は話を続けた。それを私は拳を握りしめて聞いた。いつでも兄を殴り飛ばせるように。

 

「母は必死だったんだ。俺も記憶のなかでうっすらと覚えているだけだけどな。帰ってくるのはいつも深夜。俺たちはそれまで、保育園、だったのかな、そこで母の帰りを待っていた。そのときは分からなかったが、夜の仕事だったんだな。二人の子どもを抱えているんじゃ仕方ない、って今なら思えるよ。
 そんな生活が続いてれば、母、母さんだって保たない。俺にも分かるくらいに家が荒れていった。イライラした母の怒鳴り声と、お前の泣き声とが一日中続いてた」

 

 私は、水を一口、飲んだ。怒りは一層増している。誰に対して? 目の前の兄か? 母か? 

 

「時々、帰りがとても遅くなる日もあった。そういうことだったんだろう、子どもの俺には分からなかったんだけれど。本当に限界だったんだよ、母さんも、そして俺たちも。実際、夜中に目が覚めたら、母さんが俺の首に手を廻していた。
 運が良かったのは、そこで母さんが踏み留まってくれたことだ。
 そして母さんと俺の、お前に対する罪も、母さんが踏み留まったことだ」

 

 想像はついた。母はもうどうしようもない。生活を立て直すには、私たちをどうにかするしかない。怒りに震えながら、私は口を開いた。
「それで、私を手放したのか。あなたではなく私を」

 

 暫しの沈黙のあと、兄は続けた。
「そうしなければ、いつか母さんは俺たちを手にかけていた。間違いなく。本当に、本当に辛うじて踏み留まってくれたんだ。
 そのままNPOへ駆け込んで、全てを話した、と言っていた。そしてそのまま、俺たちは施設に預けられた」

 

 私はこのしっかりと握りしめた拳をどうすればいいのだ。捨てられたのは私だけではない、兄も捨てられた。
 違う。
 捨てざるを得なかったのだ。

 

「そのうちお前には養子縁組の話が入ってその家に貰われていったんだ。
 俺はそのまま、十三になるまで施設にいた。
 母さんが迎えに来たんだ。やっと生活を立て直したって。戻っていったら、母さんは再婚していた。……義弟がいたよ。
 俺がうっとおしかったんだろうな、義父は義弟だけを可愛がり、俺とは反りが合わなかった。もう大丈夫だ、って戻った母さんのところが、俺が行った途端にガタガタだ」

 

「それで母さんは、兄さんを守ってくれなかったのか?」
 気が付けば、私は目の前にいる“兄”を、兄さんと自然に呼んでいた。

「守ってくれたよ。それこそ身を挺して、ってやつだった。いつもどこかにアザを作っていた。
 それも三、四年か。義父が仕事中の事故であっけなく逝っちまった。労災も出たんでね、少し楽になった。母さんのホッとした顔が忘れられないよ。
 俺はそのまま仕事に就いた。義弟もなんとか学校だけは出してやった。もう母さんを働かせるわけにはいかないから」

 

 私は、兄に対して抱いていた、心のなかで振り上げた拳をどう下ろそうか考えていた。そして、兄に問うた。

「それでも母さんは、私を手放したことに変わりはない。何故、顔も見せてくれなかったんだ」

「それは俺もだけど、施設から、会いに行ってはいけないと言われていた。そもそも母さんはお前の養子に行った家を知らなかった、教えてもらえなかったんだ。
 お前のことを見つけるのは、ちょっと骨が折れたよ。でも幸せそうにしてるのを見て安心した。母さんには伝えられなかったけどな」

 

 私たちのテーブルに紙のナプキンが敷かれ、熱い鉄板の上で、油の爆ぜる音を立てたハンバーグステーキの皿が置かれた。

 

「何故? 何故母さんには伝えられなかったんだ?」

 

 ナプキンを持ち上げてください、と給仕係が慇懃に告げた。

 

「……お前を見つけるちょっと前に、死んだ。まだ早かったよな、親孝行はこれからだってのに」

 

 給仕が鉄板の上のハンバーグステーキを切り、断面を鉄板に押し付ける。ジャアアアァァァ、と音を立てたところへソースをかける。脂が跳ね、盛大に蒸気があがる。

 

 湯気の向こうにある兄の表情は、伺い知ることができなかった。
 私も、兄の足跡を想い、母への蟠りが消えて、僅かに潤んだ眼を見られずにすんだだろう。

 

 湯気もひとしきり落ち着いたところで、兄が一葉の写真を私に差し出した。
「母さんの遺品だよ。お前の写真だ」

 そうか、幼いころの私は、こんな顔をしていたのか。
 何気なく写真を裏返す。そこには、
 『ごめんなさい』
 と、幾度も幾度も書き込まれていた。

「兄さん、今度母さんに線香をあげに行ってもいいか?」
 兄は、何も言わずに頷いた。

 私たちは、それぞれのわだかまりを一口大に切り分け、胸の奥へ押し込んだ。

 

 

 

「僕たちの思い」

はじめに

 


 僕は幸せだったのだと思う。父さんの顔はよく知らないが、母さんや周りの人たちは僕の誕生をとても喜んでくれた。

 僕が生まれたところは、緑の豊かなところだった。家の目の前にある緑の草原で、僕は夢中になって遊んだ。夜になれば母さんの胸のなか、うずくまるようにして眠った。

 悲しいことなんて何一つなかった。

 ある日、母さんがいなくなった。僕にはなにも告げずに。
 もうそのときの記憶はあまり無い。あとから聞いたら、一通り泣いて、泣き疲れて、うずくまって眠ってしまったらしい。

 ただ、周りの人たちはあまり母さんがいなくなったことを、深く心配してはいなかったことを覚えている。そのことに、僕はとても憤って、誰かが声を掛けても、ぷいと横を向いて他所へ行ってしまうようにした。時間が来るまで、草原に立っていた。
 それでも不思議なことに、周りの人たちはとても親切にしてくれた。とても栄養のあるご飯と、毎日のブラッシング。くすぐったいがとても気分がよかった。
 そのうち、母さんがいなくなった悲しみは次第に薄れてきた。もちろん、母さんを忘れたことはない。

 ある日僕は周りの人に連れられて、車に乗せられた。みんな、少し神妙な顔をしていたけれど、母さんの時のように、やはりあまり心配そうではなかった。

 車は、僕の家を後にして走っていった。

 そして、昔、周りの人たちが口々に話していたことを思い出した。

『こいつは肉質が良さそうだからなぁ』
『ああ、母牛の方もなかなか評価高かったからなぁ』
『出荷まで、あと一月くらいだべ?』
『高い値がつくといいなぁ』

 そう、母さんは売られたんだ。そして僕も。
 母さんは牛肉として売られた。そして僕も。

 目の前に、食肉市場が見えてきた。そうだ、そこで僕は人々に食べられる肉となる。


 いま、きっと僕はあなたたちの目の前に並んでいるはずです。ロース肉やカルビとなって。ひょっとしたら僕のタンやハラミ、レバーやミノ、シマチョウなんかも並んでいるかもしれない。そしてスープの中には、僕のテールがあるはずです。

 僕は、いろいろな思いを胸に、あなたたちの前にいます。
 だからお願いです、美味しく、美味しく食べてください。

 それが僕の願いです。

 

焼肉 叙情苑

 


 

「……いや、メニューの前にこんなの書いてあったらさすがに食べづらいわ!」

 

 

 

怒らない

「あのう、ちょっと聞いてもいいですか?」

「ん? なに?」

「この間のリリース障害対応の時もそうなんですけど、あんまり怒らないですよね。なんでですか?」

「なに? 怒ってほしいの? そういう趣味?」

「いや違いますよ! 今までの現場のリーダーと違うなぁって」

「そうだねぇ、確かにものすごい勢いで怒る人もいるねぇ。実際、そういう人を見てきたり、その下で仕事したりもしたけどさ。まあいいや、自分語りをするけどいいかい?」

「はい、よかったら聞かせてください」

「障害が起きたらさ、まずは出来る限り今まで通りに復旧させなきゃならないよね?」

「はい」

「そのためにまずやんなきゃならないことってさ、原因の特定と対処。それが難しいならロールバック、ってところかな。そのためにコンテンジェンシープラン作ってるわけじゃない」

「そうですね、いただいている時間も短いですし」

「みんな頭使って手を動かしてどうにかしないといけないわけさ。……そこでね、例えばそこで僕が烈火のごとく怒ったとして、物事はいい方に進むと思う?」

「……」

「例えば君を怒鳴りつけるとなぜかDBが復旧してるとかさ、全員集めてお説教をするとあら不思議、不具合は一切消えました、とか」

「……あり得ないですね」

「でしょ? だったら怒るだけ無駄、そんな暇があったらまずは考えろ、手を動かせ、状況を乗り切るのが第一目標なわけだよ。怒ってる暇なんか無いじゃない。

 それで障害に対処できたとして、基本は暫定対処、下手すらロールバックして手戻り。それの緊急リリース対策をしなきゃいけない。それがつい一週間前までの状況なわけだけど」

「はい、あれはきつかったですね」

「それだってさ、怒鳴ったらコードが沸いてくるわけでもないし。まあ状況は細かく確認するけどね。やっぱり怒ってどうなるもんでもないからね。

 そんなんしているうちに、怒る気が失せるんだよね」

「はあ、なるほど」

「こんなもんでいいかい? 満足した?」

「はい、ありがとうございました」

「それじゃ、作業に戻って。

 これからこの間のリリース障害の根本対策だからね。ミスの原因をとことんまで追求するよ。覚悟しておいてね」

 

 ああ、怒るよりはこっちか。楽しそうな顔をしてなぁ。

 

 

なぜならあなたは

たとえあなたが夜勤明けでとことんまで疲労していたとしても、

低血糖の症状が出て眩暈フラ付き倦怠感に襲われていても、

そう、あなたは目の前の人に席を譲らなければならない。

なぜならあなたは

  デブだから

  ハゲだから

  クサいから

  オヤジだから!

 

そう、あなたは序列からすると最後尾になるのだ。

なぜならあなたは

  デブだから

  ハゲだから

  クサいから

  オヤジだから!

 

権利など求めちゃいけない。

言いたいことはぐっと飲み込まなくてはいけない。

なぜならあなたは

  デブだから

  ハゲだから

  クサいから

  オヤジだから!

 

たとえ飲み屋であっても

下卑た話なぞ酔った勢いでしようものなら、

いや下手をすればただ話声が大きくなっただけだとしても、

眉を顰められ蔑んだ視線を送られる覚悟をしなければならない。

なぜならあなたは

  デブだから

  ハゲだから

  クサいから

  オヤジだから!

 

他人に優しくすることが当然、

自分が優しくされることなんか求めちゃいけない。 

そう、あなたは

  デブだから

  ハゲだから

  クサいから

  オヤジだから!

 

だから我らは

道の端に寄ってひっそりとしていなくてはならないのだ。

 

 

こわいまち

閑静な住宅街って、怖くないですか? 

夜中は人通りが少なくて。

皆善人のような顔をして。

道行く人皆猜疑心が顔に出ていて。

危険なものがあるはずなのに

それが覆い隠されている。

 

混沌とした繁華街の方が安心できませんか?

危険な人は分かりやすく危険な人で

危険に見える場所は間違いなく危険な場所で。

それだから危険だ、怖いなどと言われるけれども。

危険で怖いところが分かりやすいので

そこを避ければいいだけ。

 

 無表情で、なに考えているのかわからない

そんな人たちが

ぽつん、ぽつんとある薄暗い街灯の下を行く。

そんな街が、一番怖くないですか?

今更ながら、令和

 年号が変わった。『令和』、というらしい。

 私はこれで二回の改元を迎えたことになる。

 一度目の改元、『昭和』から『平成』に変わるとき

 私は自動車教習所の待合室にいた。

 確か、仮免許試験の開始を待っていたのだと思う。

 この日無事に仮免許試験に合格、その後の第四段階はそつなく終了した。

 だから、私の普通自動車免許証の取得日は、平成元年になっている。

 もっとも取得時にはシステム切り替えが間に合わなくて昭和のままだったが。

 ついでの話となるが、その後自動二輪車運転免許(中型限定)も、同年に取得している。

 

 長く使い込み、もうボロボロになった免許証入れから運転免許証を引っ張り出す。

 先の通り、取得年は平成元年だ。

 真ん中あたりに青い線が入り(ああ、三年更新だ)、そこに有効期限がある。

 平成三十四年、そうだ、今後決して訪れることのない年月が記されている。

 次に運転免許証の更新を行うときには、ここには『令和』という

 そのころにはもう見慣れているであろう文字が記される。

 

 ここで、ちょっとした後悔を感じる。

 普通自動車免許の取得が平成元年だ。 

 そして自動二輪免許(中型限定)も取得は平成元年。

 もう少し、せめて一か月早く普通自動車免許を取得していれば。

 

 次回更新時に私の運転免許証には、

 昭和・平成・令和と、三つの元号が揃ったのに。

 惜しいことをした。