新しい人生

 街の南の外れ。橋を渡った辺りに、移民たちが集まって暮らす場所があった。ひっそりと、と言いたいところだが、千人からの人間が集まっているので、貧しいながらも活気に溢れている。一つの町と言ってもいい。

 その町の中心に、目指す市場があった。その市場は我々外部の者から見れば無秩序に広がり、衣食その他諸々を貪欲に飲み込み、どろりと淀んだ空気に沈む迷宮を形作っていた。

 

 市場の西側から入り、右に幾度か、左に幾度か、まっすぐ進んだ先をさらに左に曲がり右に折れた辺り。行き交う人もめっきりいない、恐らくはこの市場の深奥部に、その店はあった。

 ボロボロのレジャーベッドに寝転がり高いびきで昼寝をしているこの男が店主なのだろう。人の気配がしたか、片目を僅かに開け、こちらを値踏みするように睨んだ。

中央市場のスリヤさんから頼まれたものを受け取りにきました」

  待ってな、と面倒臭そうに言い残して、店主は奥へと入っていった。

 緊張。耳のすぐ傍に心臓があるのではないかというほどに、鼓動だけが響く。あと数分だ、あと数分待てば、俺は。

 

 程なく店主がのっそりと戻り、台の上に小さな紙袋を投げてよこした。

 中を確かめな、とだけ言って店主はレジャーベッドに腰掛けた。袋を開け、中を弄る。指先に、望みのものが当たった。袋から引き抜き、しげしげとそれを眺める。

 パスポート。だが表紙の色は俺の国のものじゃない。表紙を一枚めくる。そこに写っている顔写真は、俺。

 晴れて、俺は俺で無くなる。やっと逃げ切ったんだ。俺は別の国の人間として生まれ変わり、違う人生を生きていくのだ。

 

「確かに受け取りました。噂通りですね、最高の出来だ」

 俺は懐から別の紙袋を取り出し、店主に手渡した。

 店主はニコリともせずに封筒を受け取り、ちらと目配せをした。

 

 先ほどまで人もまばらなこの場所をうろついていた男たちが私の両脇を固めた。そして店の奥から、明らかに場違いな、スーツ姿の男が二人現れた。俺は、この男たちを知っている。

 お前は喋り過ぎるんだよ。店主が忌々しそうに吐き捨てる。スリヤから話が来る前から旦那たちに睨まれちまった。

 

「残念だったね、『もう少しで逃げ果せたのにな』」

 背の高い男が嫌味ったらしく話しかける。太った方の男が俺の手からパスポートを取り上げ、ぱらぱらと捲っていく。

「よく出来ているなぁ、オヤジ? 大した腕だよホント」

 そう言うとパスポートを俺に押し付ける。背の高い男が店主に向かって言った。

「オヤジ、その金は受け取っておいていいぞ。その腕にはふさわしい代価だ」

 店主は呆気に取られていたが、なんら科に問われるわけではないと分かると、そそくさと店の奥へと戻っていった。

 

 俺は、それ以上に呆気に取られていた。こいつらは俺にパスポートを押し付けた。どういうことだ?

「まあ、よく逃げ切れると思ったもんだよな」

 太った男が言う。

「消しちまうのが、一番手っ取り早いんだがな」

「我々は法治国家の人間だからな、そこのところを忘れるなよ」

 背の高い男にそのように言われ、太った男はニヤニヤしながら口を噤む。

 

「このまま拘束、収監。一生日の目を見ない生活を送っていただく、という選択肢もあるんだがね」

 背の高い男が俺を覗き込んで言う。

「せっかくこんなに立派な”国籍”を取っていただいたんだ、使わない手はないだろう? このパスポートの国の人間から声を掛けられたか? 我が国の内情を探る代わりに身の安全を保障してやるとでも?」

 俺は押し黙った。図星だ、図星だよ。

「先ほども言ったが、我々は法治国家の人間だ。非合法な活動などできやしないよ。だが……」

 背の高い男が俺の頭を掴み上を向かせた。太った男が喉の奥でクックッと笑った。

「他国の人間なら、それも『このパスポートの国の人間』なら、そんなことはお構いなしだ、そうは思わないか?」

 

 ああ、そうか。大体わかってきた。

「つまり、」

 俺は口を開いた。

工作員になれ、ということか」

「テメェ、テメェがそんなお上品なものになれると思っているのか? あぁ?!」

 太った男が俺の胸ぐらを掴む。

「名目だけは、ダブル・エージェント。二重スパイだ。奴らのオーダーの合間にこちらの仕事もしてもらいたい。ただし、お前の身分はこちらでは一切保証はしないし、余程の事が無い限り、助け舟も出さん」

 背の高い男は事務的に告げた。

「そういうことだ。賢明な判断を期待しているよ。--あと三十秒で」

 

 一週間後。俺は『あの国』のエージェントと共に、国際空港に立っていた。

 ああ、新しい人生の始まりだ。