渇望

 その日、若者と俺は首都高速羽田入り口の近くのコンビニにいた。暖かい缶コーヒーを互いに一本づつ。その熱でかじかんだ指に再び血が通う。それを飲み干したらスタートだ。
 キーを捻りセルボタンを押すと、スターターが悲鳴のような音を上げる。ワンテンポ遅れて爆発的な音を立ててエンジンが息を吹き返す。若者も同じように臨戦態勢をとる。
 ウサギとカメだ、先に出ていいぞウサギさん。シフトペダルを一つ踏み込むと、若者のバイクは力強く地面を蹴り出し、エンジンは高回転をキープして走り出していく。間髪を置かずに、老兵と呼ぶに相応しい俺のバイクが滑り出していく。エンジンの回転に引っ張られるように、甲高い音を響かせて加速をする。

 

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 そのバイクを譲ってほしい、という若者が俺の元に来た。
 若者は、分不相応な金額を言ってきた。そういうことじゃない、カネの問題じゃないと言って、取り付く島もなく追い返した。
 次に彼はバイクを交換しよう、と持ち掛けてきた。自分のバイクはそれなりに金をかけていじっている、悪い話じゃないはずだ、貴方の乗ってるそのバイクには相応しいと思いますよ。それに、僕の方がこれをうまく乗りこなせます。
 俺は条件を出した。お前の話に乗っても構わないが、前にも言った通りカネの問題じゃない、今から三日後、ちょっとした賭けをしよう。羽田から東関道の潮来まで、俺より先に着いたら譲ってやる。百㎞ちょっとだ、ちょうどいいだろう。乗るかい、”若造”。

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 羽田入口から短い合流を経て高速に上がると、羽田西トンネルを抜けるまでは小さなカーブが続く。自動車の量もそれなりに出ている。それらを右へ左へと躱していく。先を行く若者も同じように、車たちの流れを遮ることなく進んでいく。乗れている。サーカス騎兵団とでも呼んでみるかい、と、心の中で嘯く。
 首都高速一号線から首都高湾岸線へ入ると道幅は広く、緩やかなカーブとなる。ギアを一段落とし、アクセルを開け老兵に活を入れる。上がっていくスピードに視界が狭まる。前を走る車が、普段ではあり得ない相対速度で近づいてくる。受ける風圧が体力を奪い、張り詰めた精神を削っていく。

 

 回せ、回せ。そんなことでは先を行く若者に追い付けやしないぞ。排気量ではこっちが僅かに上だ、追いつきたいだけの理由があるんだろう? 回せ、もっと俺を躍らせろ。

 

 江戸川を越え、大きく左へ下る道を駆け降りる。そこからは暫く、長い直線が続く。右手を絞るようにしてアクセルを開けていく。クランクシャフトの回転に乗って、引っ張られるように速度を増し、未だ前を走る若者を追いかけていく。奴は乗れている、なかなか射程距離に入りやしない。

 

 まだだ、まだ行けるだろう? お前の欲しいものは目の前にあるぞ。俺が手伝ってやる。回せ、回せ。もっと、もっとだ。

 

 市川料金所の小さなコーナーを抜けるとき、若者が少しだけもたついた。好機。シフトを一つ、いや二つ落とす。強烈な悲鳴を伴って、エンジンの回転数が上がる。と同時に暴力的なまでのエンジンブレーキリアタイヤを暴れさせ、その見返りとして背中を蹴飛ばされるような加速を得る。若者の背が、すぐそこまで迫る。

 

 そうだ、あと少し、手を伸ばせば届く場所にお前の欲しいものがあるぞ。
 そう、お前の欲しいもの。”若さ”だ。求めても手に入れられないもの、打ち負かして留飲を下げるくらいだろうが、な。それでもないよりはマシだろう。
 今のお前なら悪魔とでも契約できるだろうさ。さあ、回せ。俺をもっと躍らせろ。

 

 そのまま湾岸幕張の料金所を抜けたあたりで、俺は若者の前に出ることができた。いや、前を譲られたのかもしれない。宮野木ジャンクションを前にして車の量が増え、前がつかえてくる。思うように前へ進めない。背後に若者の気配、圧力を感じる。苛立ちが募る。ジャンクションに入り、分岐合流に神経を削られる。分が悪い、舌打ちを一つ、打つ。前へ押し出されたこの状況が許せない。誰を? 何を許せないんだ?
 余計な考えが頭をよぎると同時に、若者の影が右側から俺を置き去りにする。下手を打った。あいつは俺の後ろから冷静に状況を観察していた。本来ならそれは俺の領分だ。無駄に熱くなるのは若者の特権じゃなかったのか。頭を冷やせ、追い詰めろ。

 

 ハッ、熱くなるのは俺のエンジンだけで十分だ。お前は俺を躍らせるだけでいいんだよ。さあ開けろ、回せ、駆けさせろ。俺はいつだって準備できてるんだぜ。

 

 酒々井インターチェンジあたりでようやく若者の背を再び射程圏内に捉える。ここまでも決して多くない車の量がより少なくなる。自問する。俺は冷静か? よし、契約してやる。吼えろ、踊れ。誰よりも、何よりも、だ。嫉妬と渇望の叫びを上げろ!
 冨里、成田、大栄。佐原までで追い詰めてやる。狭まった視界は若者の背だけを捉える。

 

 そうだ、それでいい。いくらでも吼えてやる。何度でも踊ってやる。お前はアクセルを開ける、冷静に追い詰めろ。

 

「そうだ、望むものは目の前だ。手を伸ばせ」